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【特集:新春対談】
新春対談:夢を育てる学塾

2020/01/06

人を育てるシステム

福澤 テレビドラマの監督はいろいろなものをやらなければいけないので結構大変です。私は本来、映画監督になりたかったのですが、どうも最近、映画自体にそれほど魅力を感じなくなってきました。テレビドラマは見る人数が映画の10倍近いので、ヒットした時の反応は破壊力がものすごい。映画で大ヒットといってもせいぜい2、300万人ですが、ドラマで視聴率20%をとると2000万人以上が見ている。

テレビ制作はまだ人気の職業で、テレビ局には、それなりの学歴の人が集まって、厳しい選別を受けて、何百倍の倍率で選ばれて入ってくる。入ったら全員制作ができるかというとそれは分からない。営業や総務みたいな仕事も重要です。

それでも、そこには、東大、京大、早慶といった優秀な学生たちが集まってやっている。運もあるとは思いますが、そこで制作をすることのできる人の数には制限があって、大変ではありますがいろいろな経験ができるんです。だから、優秀な人材が必要な職業ということになります。

長谷山 広い意味での教育というか、人を育てていくシステムをきちんと持っているということですね。人材が集まり才能がぶつかり合って、その中からいろいろなものが生まれるような空間になっていると。

学校も同じで、上から教えるだけではなく、人が集まってきてぶつかり合って、その中から才能が開花していく場なのだと思います。ただ、人が育っていくためのシステムはつくっておかなければいけない。幼稚舎はまさにそうですよね。手取り足取りいろいろ詰め込むのではなく、場をつくって、そこで育っていくことが大事なのでしょう。

福澤諭吉に学んだ挑戦する気持ち

長谷山 福澤さんは常識にとらわれずに皆が「きっと駄目だよ」というものにもあえて挑戦してきたと思うのです。

福澤諭吉がなぜ「独立自尊」と言ったかというと、封建制というのは皆が上の言うことに従う組織で、自由に発言することが許されない。明治になって、それでは駄目だと、近代化するわけですが、政府はとにかく法律をつくる、制度をつくる、官僚を養成すると、仕組みを強化して近代化しようとした。

その時に福澤はそれでは不十分だと言うわけですね。国民一人一人が近代化しなければ、国全体はどうにもならない。そういう意味で「独立自尊とは何だ」と言えば、まずは「学問のすゝめ」。次に大事なのは、経済的に自立するということで、それは、つまり中川先生の言われた「職業を持て」ということです。人にすがったり、殿様の俸禄で生きていたら自由に行動できない。

学問を修めて、職業を得て自立したら、次に大事なのは、世の中がどういう方向に行くのかに関心を持ち、こういう方向に行くべきだという考えをきちんと持つことです。政治家任せではなく、自分がやるべきだと思ったことをやるし、指示や流行が間違っていれば違うと言い、皆がそれはできないと言っても、ぜひやらなければいけないと思うものはやる。こういうものの総和が独立自尊の精神で、それは慶應の教育にも活かされていると思うのです。

ところで、今日ぜひ伺ってみようと思ったのは、福澤諭吉の玄孫である福澤さんに、家庭内や一族の中で福澤諭吉像はどのように語られていて、どのようなイメージを持たれているのか、ということです。福澤の子孫の方に福澤をどう思うかと聞く機会は、なかなかないのです。

福澤 申し訳ないのですが、福澤諭吉先生について家庭の中で言われていることはそれほどないのです。よく言われたのが、福澤先生は「これから絶対に必要なのは、オランダ語だ」と思い、自分でも辞書をおつくりになって勉強したのに、横浜でオランダ語がまったく通じずに本当に必要なのは英語だと気付いた時、もう1回勉強し直したことだと。そのことを引き合いに出して、「あなたはそういうことできる?」と言われる(笑)。

「それをしたから御曾祖父さんは立派な学校をつくり、あなたが偉そうにいられるのよ」と。どんなことをしたかというより、とにかくこれだと思ったことをやって、それが駄目だったらもう1回チャレンジしなさいということは、ずっと言われていました。

長谷山 それはおもしろい話ですね。なかなかそういうふうに福澤諭吉を使える家庭は、慶應関係者の中にもないと思います(笑)。

福澤 「あなたは英語1つできないのに、英語を全部マスターしたあとに違うことできる?」と、「あなたは国語だってできないでしょう」と怒られて(笑)。

長谷山 私なりに思う、福澤諭吉像は、まず、若い時はすごく好奇心が旺盛な人ですね。エネルギッシュですぐに行動に移し、障害があっても必ずそれをクリアする。人からみれば奇想天外なこともやってのけますね。例えば咸臨丸に乗る時に、下僕の身分なら乗せてやる、と言われれば、結構ですよと、平然として、従僕として乗り込んだ。

『学問のすゝめ』が売れた時、『西洋事情』の偽版が大量に出まわっていたので、自分で出版業をやりたいと言うと、出版問屋に先生はわれわれの仲間の業者ではないのだから困ります、と言われた。すると、今度は前垂れをかけて行って、今日から「福澤諭吉」という屋号で商売をする業界人になったのでやらせてくれと言って、呆れた業者に「しょうがありませんね」と、認めさせた。

オランダ語から英語への転換だけではなく、創意工夫で困難を乗り越えていくという精神、人に無理だよと言われると、逆に「よし挑戦してやろう」という気性の人だったのではないかと、いろいろなエピソードから感じます。

それから、私は、福澤諭吉は本来、世で言われているほど交際上手で明るく闊達な人ではなかったのではないかと思っているのです。3歳で父を亡くして中津へ帰ったけれど、周りは言葉も違うので姉たちと遊んでいたような孤独な幼少期を体験している。だから逆に成長して、適塾や、あるいは渡米した際などに人間のつながりが非常に重要だということに気付いたのではないか。

人間というのは人付き合いをする時には表情を柔らかくして笑顔で接しなければいけない、ということも言っています。これも本人が努力してそうしていたのではないか。1人でいる時の福澤諭吉は意外と内省的で、物事を深く考える人だったのではないかなと思うのですね。

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