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【特集:「移民社会」をどう捉えるか】
座談会: 移民社会化から考える これからの日本

2019/07/05

反グローバリズムと多文化共生

塩原 その社会に住む人々のシチズンシップをしかるべく保障していくことが、ネオリベラリズムへの対抗になっていくという話ですね。そこに多様なバックグラウンドの人たちのシチズンシップが入ると、それは多文化主義の話になるわけです。

そうすると、「反グローバリズムと多文化共生は両立し得るものなのか」という問いが浮かんできます。これが両立し得るとしたら、それはいかなる方向性、規範があり得るのか。このことはすごく重要だと思うのです。

 難しい問いですね。今後、どうなるのかという話だと思うのですが。新自由主義路線は、今、先進国では決別しようとする流れが強くなってきていると思うんですね。2016年のブレグジットも、トランプ大統領の登場もそうです。イタリアでポピュリスト勢力が政権を取ったことも、昨年の秋からのフランスの黄色いベスト運動もこの流れの表れです。

これらは皆、新自由主義路線、要するにグローバル化路線に対する庶民の反発と見ることができると私は思います。ここ30年間、どの国も中産階級が没落していき、格差がどんどん広がっていった。

97年から20年間の日本の大企業の売上高、給与、経常利益、配当金、設備投資の推移を「法人企業統計調査」でみると、株主への配当金が約5.7倍と大幅に増えている。経常利益は97年に比べて約3倍になっていますが、従業員給与は20年間でなんと下がっている。設備投資も大幅減少です。

この20年間、大企業は利益を株主への配当金に差し出し、従業員には還元していない。まさに日本は新自由主義の優等生なのかもしれません。

ところが、アメリカ、イギリス、イタリア、フランスのような先進諸国では、そういった新自由主義路線に庶民は「もう嫌だ、いい加減にしてくれ」と声を上げている。日本はそういう諸国と連携をして、国際協調のもと、資本の国際的移動に、ある程度歯止めをかけ、もう一度各国の庶民がきちんと豊かになれるような路線に転換しないといけないと思います。

グローバルな財界の要求するままに外国人単純労働者を入れ続けていくと、不満を言わずに耐えてきた日本人も、さすがに爆発するのではないかと危惧します。そして、反グローバリズムのポピュリスト運動が日本でも出てくるのではないか。そういう中、外国人労働者が大量に入ってきたら、あまりよろしくない結果になるのではないかと悲観的な見通しを持っています。

望月 僕もそのリスクはあると思っています。4月にフランスで黄色いベスト運動を見てきました。実際に一緒に1日歩いてみましたが、上か下か、という側面が強い運動の中に、右寄りから左寄りまで、本当に様々な主張が入り込んでいると言われています。

経済的なグローバリゼーションに対する抵抗感と、人が多様化していくことに対する抵抗感は混同されやすい。そういった部分を意図的に利用し、外国人排斥の主張を用いて政治的な支持を得ようとする動きは、ヨーロッパなど様々な場所で起きてきました。近しいことが日本でも起きることへの危惧はありますし、主にオールドカマーに対するヘイトの動きなどはすでに現実に起きています。

日本の一般の人たちの暮らしが悪くなってきている理由が、政治にあり、その背後にある経済や産業の論理にあることに気付いて、声を上げ始めたとき、それが外国人、移民の排斥と、セットにならないようにしないといけないと思っています。

外国人労働者の新規の受け入れの抑制や停止というのは政策として取り得るオプションだと思いますが、現在日本で何らかの形で暮らしている人たちを国外に追い出したり、あるいは、国内に残しながら二級市民として扱うようなことは絶対にやってはいけない。この区別は大事です。

普通の日本人の暮らしが豊かになるということと、外国人を含む社会統合を両立させるためにも、例えば「技能実習生の問題はベトナム人だけの話ではなく、日本人労働者の問題でもあるのだ」と、利害が共通する点について、地道に訴える必要があります。

なぜ自分が結婚したいのにできないのか、子どもが2人欲しいのになぜ難しいのかといった問題と、外国人労働者の受け入れのあり方は深くシンクロしています。「反グローバル」であることと「外国人への反発」を切り離しておくことはとても重要なことです。

毛受 私も、外国人が増えてくると、政治的にそれを利用するような動きが出てくる可能性はあると思いますが、ただ、ヨーロッパと日本は決定的に違うところがあります。

1つは外国人労働者の数がヨーロッパとは桁違いに違う。また、日本は先進国の中で唯一、人口減少が始まっている国で、これからさらに加速していく。だから外国人に職が奪われる恐れがあるヨーロッパの状況とは違うと思います。逆に外国人労働者の受け入れをしないと、人手不足で企業がつぶれていくというのが今の状況です。

それから、確かにヨーロッパではグローバル企業が移民政策で利益を得ていると思いますが、日本では技能実習生がいないと困るのは、先ほど紹介した四国の例のように地方の零細企業で、ここも違うと思うんですね。

日本はいままでずっと移民政策を採らずに、やせ我慢をしてここまできてしまった中で、いよいよ人口が減り、若い人も減って切羽詰まった中での外国人受け入れなのです。適切なやり方で受け入れていけば、ヨーロッパで起きたようなことは起こらないと私は思っています。

多文化共生とナショナリズム

塩原 いくつかの問題点が出てきたように思います。望月さんがおっしゃった通り、すでに日本に合法的に住んでいる人々を追い出すようなオプションは、日本が資本主義と民主主義を選択し続ける限りはない。これがまず1点目。

2点目は、ポピュリズムが戦っている相手はグローバル資本主義なのに、自分と同じような苦境に陥っている隣の外国人労働者を排除しようとする動きも出るかもしれない。これは戦う相手を間違えているが、そういう混同がポピュリズムの中で起きてくるかもしれないということ。

3点目に、毛受さんがおっしゃっていたように、閉鎖的だ、同化主義的だと言われていた日本といえども、地域社会、市民社会の人々、地方行政が頑張ってきた取り組みはあった。その可能性をどう評価するか。

4点目に、今の日本政府の受け入れ政策では、一方では、特定技能とか技能実習に象徴される半熟練労働者と言われる人々を受け入れていく動きと、いわゆる高度外国人材を受け入れていこうとする動きがある。どの先進国の移民政策にもこの両面があります。つまり、役に立つ移民を選別するという動きがある。

松元 移民を選別するという点については、やはり背景にあるのは、経済合理性ですよね。労働力、生産力として人材を見て、できるだけ福祉的な負担を避けるという、いわばグローバル化の論理の一環と見ることができます。

先ほどのお話に絡めて言うと、よく反グローバリゼーションと反移民というのがセットで語られがちだけど、実は、グローバリゼーションというのは、別に文化的な多様性を目標にしているわけではないと思うのです。そこで重要なのは経済的な合理性であって、多様性はその副産物でしかない。それが今、日本にいる外国人の方々の処遇につながっています。

それに対して反グローバリゼーションを掲げたときに、1つの対応は、外から入ってくる不純なものを排除して、われわれの純粋性を維持するような形です。その場合、矛先が向かいがちなのが、移民、外国人労働者だと思います。実際に今日のポピュリズム運動の中には、少なからず、われわれのアイデンティティを取り戻すんだ、という動きはあると思います。

それに対して、実際にもう国内にたくさんの外国人の方がいるのは事実なので、どのように多文化共生を考えていけばいいかということかと思います。

塩原 これは多文化主義なり多文化共生と、ナショナリズムをどう切り離せるか、あるいは、反グローバリズムとナショナリズムを切り離すことができるか、という問いでもありますね。

松元 そうですね。経済合理性を推し進めるのがグローバリゼーションだとして、それに対して、「いや違う、われわれの暮らしを守るんだ」というスタンスを取るなら、例えば結婚せずに生きる、あるいは同性愛や同性婚などの多様な生き方も、ある意味では経済合理性には反しているかもしれません。

しかし生き方は生き方です。だから多文化共生ということをもう少し広げて、多様な価値観、多様な生き方のあり方を認める方向で進むのであれば、必ずしも反グローバリゼーションの論理と、国内を純化してアイデンティティを復権するというあり方が一緒には進まないような気がします。

塩原 つまり在留外国人も含めた多様な多文化的シチズンシップを承認していくことによって、それを反グローバリズムへの起動力としていくような流れが可能なのではないかと。

望月 その文脈でこの30年間の移民政策を考えると、自民党政府が進めてきた外国人労働者の受け入れ政策というのは、労働者は入れるけれども定住はさせないということ、つまり長期的に国民化したり、シチズンシップを付与していくことを前提としていない政策になっています。

「移民政策ではない」という政府の言葉に典型的に表れていますが、外国人を受け入れるという「開いていく話」と、定住はさせないので日本の住民の多様化には帰結しないようにしますという、「閉ざす話」が常にセットになっている。日本が今後どうなっていくかを考えた際、「実際に多様化が進んでいるから大丈夫なんだ」と思えないのは、現実に進む多様化を見ないようにするような、規範としての純粋性、単一性を常にエクスキューズとして言っているからです。

事実としては定住する移民がどんどん増えていても、それを無化するような言葉が意図的に選ばれ、その言葉が保守層に信じてもらえるからこそ、短期の労働者の受け入れが可能になっている。こうした組み合わせに大きな問題があると思います。

グローバリゼーションに対して対抗軸をつくっていくときに、日本というネイションを前提にしつつ、同時に国内を多様にしていくという路線を選べるのか、どれぐらいの支持があるのか、不安です。

意識的にその必要性を語っていかないと、「単一性、純粋性が大事だ」という悪いナショナリズムか、とにかくグローバリゼーションのもとに短期の外国人労働者を受け入れていくか、というわかりやすい選択肢だけになってしまう。今はその2つが合わせ鏡のようになっていると思いますが、「その間の選択肢があり得る」と言うための言葉が足りていないのではないか。

そして松元さんもおっしゃったとおり、これは移民だけの話題ではなくて、いろいろな多様性の共存のために、新しい路線を打ち立てていくということが必要なのだろうと思います。

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