【特集:「移民社会」をどう捉えるか】
「川崎」にある、多文化共生の姿──若者たちは何を夢見るのか
2019/07/05
多文化共生の最前線で
2015年、東京近郊のベッドタウンであり工場地帯でもある神奈川県川崎市川崎区で起こった、いわゆる川崎市中1男子生徒殺害事件は、その後の影響も含めて、改めて同地区が日本における多文化共生の最前線に位置することを実感させた。
当時、件の事件は残忍な手口もあって、報道が過熱した。遺体の膝には擦り傷がついており、跪かせて背後から刃物で首を切ったと見られたため、やはり世間を騒がせていた過激派組織“イスラム国”の処刑方法を真似たのではないかという見方が出る。さらに、そこから“川崎国”なるキャッチフレーズが週刊誌で使われるようになり、そのインパクトに煽られるように世間の下世話な関心は高まっていった。
犯人グループの3人の内、2人が外国にルーツを持っていたことも騒動に拍車をかけた。川崎区は工場地帯として発展したため、外国人労働者の多い地区である。“イスラム国”の非道さはイスラモフォビアと結びついたが、“川崎国”というフレーズもまたレイシズムに利用されるようになり、ネットには差別的な書き込みが溢れた。加害少年の自宅の塀には「××××に帰りな!」とスプレーで落書きがされ、さらに、13年から川崎区内で行われていた、いわゆるヘイト・デモも過激さを増した。“川崎国”というフレーズを使ったプラカードが掲げられ、デモのコースが露骨に、外国人住民の多い地区を狙うようになっていった。
一方で、それに抗う動きも起こった。例えば、〈C.R.A.C. 川崎〉。川崎市在住のアクティヴィストたちが結成した、この“C.R.A.C.=Counter-Racist Action Collective(対レイシスト行動集団)”は、ヘイト・デモに対して徹底的にカウンターを行った。路上に座り込んでデモ隊の進路を妨害する実力行使から、市議会に対する地道なロビーイングまで様々な手法を駆使し、結果的に川崎でヘイト・デモを行えない状況をつくり上げる。また、BAD HOPという、主に95年に川崎区で生まれた若者たちが結成したラップ・グループは、音楽を通して地元が抱える問題に向かい合っていった。
「巷を騒がせている凄惨な事件は、確かに地元・川崎で起きたことです。BAD HOPとはまったくの無関係ですが、新しい『Stay』という曲でも、自分たちがまだ川崎の最悪な環境のどん底にいたときのことを歌いました。そんな場所で、今はヒップホップに可能性を見出して活動しています」。BAD HOPは中1男子生徒殺害事件から間もない時期に、Twitterにそんな文章を投稿している。文中にある当時の新曲「Stay」は、自分たちの過酷な生い立ちと犯罪に手を染めた過去を歌った後、「今じゃドラッグより夢売る売人」と締めくくられる。
戦後、川崎区の繁華街では労働者のためにいわゆる“飲む・打つ・買う”の商売が盛んになり、それを仕切るアウトローの力が強くなっていった。同地区には彼らを頂点とするピラミッド型の権力構造が存在し、地元の不良少年は下層に組み込まれる。BAD HOPも中1男子生徒殺害事件の犯人グループもそのような抑圧的な社会で生きてきた。正確に言えば後者はピラミッドから弾かれた、言わば不良の落ちこぼれのような存在で、自分たちでさらに小さな縦社会をつくったあげく事件を起こしてしまう。対して、不良のエリートだったBAD HOPは、だからこそ強いしがらみに囚われてきたが、音楽で生きていくことを選ぶ。
BAD HOPは地元でロールモデルとなり、2015年頃は、彼らに憧れて公園でラップの練習に励む若者の姿が多く見られた。すぐに人気は全国へ波及。2018年末には日本武道館での単独公演を成功させている。その晴れ舞台で、リーダーのT-Pablowは「川崎区で有名になりたきゃ 人殺すかラッパーになるかだ」と叫んだ。つまり、川崎中1殺害事件とBAD HOPの成功は同地区の不良少年が向かい合う岐路の象徴なのだ。
反差別運動の接続
もしくは、C.R.A.C. 川崎とBAD HOPが起こしたのは広義の新しい社会運動だと言えるが、それは川崎区における多文化共生の歴史を受け継ぎ、発展させたものだ。1912年、農村地帯だった川崎町(現・川崎区)が工場誘致を開始。各地から集まった労働者の中には朝鮮人移民もいて、彼らは寄り添い合うように、日本人が住まない湿地帯にバラックを建ててコミュニティを形成した。やがて、川崎区は工場地帯として発展した一方で、公害や差別といった社会問題が前景化し、それに伴って運動も起こっていった。
川崎区の在日コリアン集住地域である桜本に建つ川崎教会の牧師=イ・インハは、自身の子供が地元の幼稚園から在日コリアンだということを理由に受け入れを拒否された苦しい経験を出発点として、69年、桜本保育園を開設する。ただし、同施設は在日コリアンだけを受け入れたのではなく、地元の共働き家庭、全てに門戸を開いた。これが川崎区における多文化共生の出発点となる。もちろんそれ以前から、例えば池上町という地区では、貧困の中での在日コリアンと日本人の相互扶助があったが、その後、73年にインハが立ち上げた社会福祉法人〈青丘社〉こそが、運動を先導し、実践を行い、市政にも影響を与えてきたことは間違いない。80年代以降に増えたフィリピンや南米からの移民が抱える問題に真っ先に対応したのも、2010年代以降に起こったヘイト・デモに真っ先に抗議したのも彼らだった。
先述のC.R.A.C. 川崎の功績のひとつは、青丘社が行ってきたような従来の反差別運動と、10年代以降の新しい反差別運動を接続したことだろう。前者に課題があったとしたら、長年続いてきたからこその、運動家の高齢化や、運動自体の閉鎖化だ。対して、新しい反差別運動の中にはいわゆるアクティヴィストだけでなく、初めて社会運動に関わるひともいれば、文化に携わるひともいた。彼らが新しい風を吹き込みつつ、従来の運動が蓄積してきた知識や手法が生かされたことによって、川崎区における反差別運動は一定の結果を出すことが出来た。ただし、ヘイト・デモがなくなってからも街宣や選挙運動という形でヘイト・スピーチが行われている実態があり、闘いは続いている。
音楽において川崎区を象徴する存在としては、過去にキャロルがいた。説明するまでもない日本を代表するシンガーである矢沢永吉の出発点として知られるこのバンドは、72年、矢沢が川崎駅近くの楽器屋に貼ったメンバー募集の張り紙を見て、ジョニー大倉が連絡してきたことをきっかけに結成された。矢沢は広島出身の被爆者2世。早くに両親を失い親戚をたらい回しにされ、困窮した少年時代を送ったという。高校卒業後、音楽で成り上がることを夢に上京。川崎区に住み、働きながら音楽活動を行っていた。
一方、ジョニー大倉は川崎区出身の在日コリアン2世。やはり父親を幼い頃になくし、母親は3人の子供を養うために川崎のキャバレーで働いた。大倉も小学校低学年から新聞配達の仕事をしており、中学生の時に貯めた金でギターを買ったという。そんな矢沢と大倉は、労働者の街であり、移住者の街である川崎区だからこそ出会った。キャロルは、当時のユース・カルチャーの花形だったロックンロールを演奏していたが、もし彼らが現代の若者ならばラップをやっていたかもしれない。そういう意味で、BAD HOPは2010年代版のキャロルなのだ。
2019年7月号
【特集:「移民社会」をどう捉えるか】
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磯部 涼(いそべ りょう)
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