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【特集:認知症と社会】
座談会:「認知症とは何か」を社会とのかかわりから考える

2022/11/07

一人称で考えるケア

堀田 加藤さん、老いることを祝福と思える社会を、と石原さんが重ねてお話しくださいました。「あおいけあ」という場では、もう実現しているのではないでしょうか。日常の営みのなかに織り込まれた祝福が、居心地のよさを生み出しているのではないかとも感じます。それはどうやって作られてきたのでしょうか。

加藤 よくわからないですが、一人称でものを考えるかどうかだけだと思っています。僕は25歳で介護事業を始めた時から、グループホームはログハウスメーカーで作る、とこだわっていたのです。社会福祉法人とかだと、自分の住まいとして、そこで本当に落ち着いて暮らせるかという発想がないから、塩ビタイルの床で、プラスチックのテーブルで、白い壁みたいなものを平気で作る。

自分は5分だっていたくない空間を作って、ここが介護の現場でございますみたいなことをやっているけど、いやそうじゃなくて、「あなたはそこにいたいのか」ということだと思うんですね。そもそも室内なのに何で車いすに何時間も座らせているのとか、自分だったら無理ということをやっているのが、まずおかしいと思うんです。

自分だったらこういう場所にいたいし、自分だったらこんなふうに扱われたいなと思うことが大切だと思います。

堀田 自分だったらどうだろうと考えることは、誰でもできることですよね。

そういう加藤さんにとって、認知症当事者の方々はどういう存在でしょう。介護サービスを利用する方々はもちろん、友人を含めて、認知症の当事者である方々が身の周りに多くいらっしゃいますよね。

加藤 樋口さんとか丹野さんが、いろいろと言ってくれるのは僕らにとっては本当に希望の星で、北極星みたいなものです。どう進めばいいのかみたいなことをちゃんと確認できる存在なんですよ。

でも、先ほどチェンジマネジメントという話がありましたが、社会のあり方として、変化があるから葛藤が起きるわけで、摩擦の部分がある。逆にスピード感を上げるには、その摩擦の部分を大きくしなければいけないところもあって、僕が外でいろいろな話をしたりとか、樋口さんが本を書かれたりするのも、そうだと思います。

認知症に対して理解とか、認知症の方の参加と言っているけど、そうではなくもっとそれにお金が出てコミットする社会を作っていかなければいけない。それこそ認知症の当事者の人たちが国からきちんと報酬をもらって、自分の住む地域ではない介護現場に行って外部監査をする。「こんなところにいられないよ、直してください」とガンガン書いて、それを直さないと営業ができないような仕組みを早急に作っていかないといけないと思います。

僕らにしてみれば恐怖ですけどね。でもそういうことをやってもらって、バーンと社会変革をする方向に振っていったら相当面白い。面白いという言い方はおかしいですが、この後、日本の後にアジアやヨーロッパ諸国で超高齢社会がくるわけなので、すごく見本になりますよね。

堀田 私たち認知症未来共創ハブの活動でも、樋口さんや丹野さんをはじめ100人以上の認知症のある方のお話を伺って、経験専門家のナレッジから学び、これを社会変革のエンジンにしていけないかと小さな試みを続けています。ですから人生の先輩でもある一人ひとりの生き方と語り、知恵そのもの、そしておっしゃるように認知症のある当事者としての発信のインパクトはとても大きいと実感しています。

でも、当事者の言葉にインパクトがあるからどんどん言ってくださいというのもまた、ちょっと違うのではないか。狭義の当事者によりかかりすぎではないかとも感じています。

加藤 僕は認知症のある方を起用するのがある意味、どんな百の専門職を集めるよりも、はるかに力のある意見だと思っています。専門家がこうするべきですと言うよりも、本人が「私こうなんですけど直してください」と言って、それが実行される社会のほうがいいと思っているし、逆にそれぐらいの摩擦があってもいいのではないかと。

堀田 先ほどおっしゃった、変化のマネジメントとしても、ということですね。樋口さんはどう思われますか。

樋口 自身の強みを活かして仕事ができるのは幸せですし、それに見合う報酬は有り難いです。ただ、私は講演を始めた頃、ネット上で認知症のふりして金儲けしてる、という中傷を読んで衝撃を受けました。それからお金のことは一切言うまいと思いました。

もともとあまりお金に興味がない人間で、お金のための活動とは絶対に思われたくなくて、講演の依頼者と報酬の話もしません。

加藤 すごくよくわかります。僕も福祉の講演とかで、「え?」みたいな金額を提示されることがあったりします。

介護施設の理想と現実

樋口 もう一つ、最近ネットで見て印象的だったのは、人を大事にする施設だというから信頼して母を預けたのに、夜叫ぶから薬を飲まされると。やめてほしいと頼んだら、夜間は一人で何十人も見ているから、個別に対応はできない、嫌なら退所しかないと言われたと。

加藤さんの施設のような介護をしてもらえるところもありますが、現実には薬で大人しくさせる施設もたくさんあります。私の親も介護が必要な年齢ですが、実家の近くには加藤さんの施設のようなところはない。理想と現実を知っているだけに、余計つらくなります。儲からない認知症とか知的障害者の施設が、収容所的なままで生活の場にならない状況はどうしたら変わるのかなと思っています。

堀田 多くの介護サービス事業所では、それぞれ利用者・入居者の方々にとって居心地のいい場づくり、質の高いサービスの追求に取り組まれていると期待していますが、お話しくださったように薬を飲んでもらうという対応をとっており、それは仕方ないことだと思い込んでしまっているところもあるのではないかと思っています。

そして、おっしゃる通り、理想的な事業所、施設の存在は知っているけれど、地元にはない。あるいはどの事業所でもサービスにたどりつけたら大丈夫とは必ずしも言えないのが現状です。

このことは、大石さんはどのように思われますか。

大石 解決するのはすごく難しい問題ですが、まず政策的なお金の配分がそもそも間違えているのではないかなと思います。認知症疾患医療センターとか、認知症のある人に精神医療みたいなことができる施設は非常に限られていると思うし、理想的にはコミュニティが豊かになっていったら、そういった施設はいらなくなると思います。私自身も自分のやっていることがなくなっていけばいいと思っています。

つまり、お金の配分をそういった医療構造に投入し過ぎなのだと思うんです。それで結局、介護現場の方たち、あるいは当事者ご本人とか、あるいは家族が豊かな安心できるくらしを手に入れるためのサービスや政策のほうにお金が回っていないのだと思う。

先ほど加藤さんがおっしゃっていた、当事者の方も入った外部監査はすごく大事だと思います。自治体の中でサービス提供者側の提供するサービスの質の格差を何とか解決できないだろうかと議論すると、実質的に意味のある監査は行われていない。やはり外部評価を入れていかないと、なかなか上手くいかないのではないか。

そこにまず資金を投入するということ、それから介護保険の制度もそうですが、認知症になる人がいろいろな制約の中で、本人中心でないサービス設計がはびこっている状況にある。それは結局、そこにお金が付いていないからそうなってしまっていると思うのです。

認知症のある人の介護をする人たちが安心してそこで暮らせて、理想としているケアを実践できるようなっていくためにも、予算の配分を根本的に見直していかないといけないのではないか。

異常じゃない「普通の人」

堀田 最後に、それぞれ明日に向けてという観点でお話しいただければと思います。

樋口さんには、認知症の豊かさを伝えよう! という思いも、ぜひお話しいただければ。

樋口 SNSは、今までは愚痴の捌け口で、暴力を振るわれたとか、認知症に関してはネガティブな投稿ばかりでした。しかし、最近は認知症の母親からこんな温かい言葉をもらったとか、ポジティブな投稿が出てきました。私も身近でそんな話を聞きますし、実際たくさんあると思うのです。

そういうポジティブな話を当事者や関わる人たちがもっと積極的に発信してくれたら、人々の意識が変わると思っています。多くの人は認知症になったら人格が崩壊するとか、暴力的になると思っていますが、それはストレスに対する防衛反応なのです。安心できる人間関係の中にいれば、穏やかで優しい人であり続けます。その人の核は変わらない。そのことを知ってほしい。

そういう認識が広がっていったら、認知症になったからといって誰も絶望しないし、親がなっても、慌てたり態度が急変して関係を悪化させることもないと思います。人の意識が変わっていくことがすごく大事です。

堀田 樋口さんの、『「できる」と「できない」の間の人』の本が出てすぐにお会いした時、この本は認知症コーナーに置かないでほしいとおっしゃいました。樋口さんは「認知症のある人が社会に居場所を取り戻すための3つの提言」として、言葉を変えよう! 出会い、対話しよう! そして、認知症の豊かさを伝えよう! と書かれていますが、この本からは、時に「まあ、いい」で済ませ、道端のタンポポとも微笑みを交わす、認知症の・・・・というよりある一人・・・・の豊かな日常も伝わってきます。

樋口 年を取っていくと誰でも認知機能が落ちていきますが、認知症との線引きは難しい。多くの人が認知症は特別なもので、認知症にだけはなりたくないと思っているのですが、認知機能の衰えは、人生の一部分です。

誰でも年を取ればできないことが増えていきます。それを恥じたり恐れるのではなく、ごく普通のことだと思えたら、みんなが楽になる。認知症への恐怖心からも自由になれる。「認知症があろうと普通の人なんだよ」と誰もが思える社会になればいいなと。

堀田 以前、慶應の医学部の講義で樋口さんが監修した幻視のVR体験をやった時、最初はすごく怖いものとして、いるはずのない人が見えるという一人称体験をして、医師のタマゴたちがキーキャー言っている。そこに最後に樋口さんが画面に登場して、「近視、遠視、乱視、幻視くらいなんです」と穏やかに語りかけてくださいました。まさに普通のこと、というように。

樋口 幻視は異常でおぞましいものと思われています。それに対抗する手段として、「普通」を強調しています。ただ実際は簡単ではないと思いますよ。

私も義理の親から「今すぐ来て」と連日電話がかかってきた時は、「どうしよう!?」と思いました。だから認知症介護は大変、ということはよくわかります。でも、「異常な人じゃない」ということは言い続けたい。普通の人と理解したほうが、認知症当事者も、今は私たちを異常視している将来の認知症当事者も皆、幸せになれると思うんです。

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