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【特集:認知症と社会】
駒村康平:認知機能の低下が経済活動に与える影響とその対応

2022/11/07

  • 駒村 康平(こまむら こうへい)

    慶應義塾大学ファイナンシャル・ジェロントロジー研究センター長、経済学部教授

1.超長寿時代の到来

医療技術の進歩などにより、寿命は今後も継続的に伸長すると期待されており、「人生100年の時代」が現実になりつつある。しかし、100年の寿命を享受できるのは21世紀生まれの世代、現在の大学生よりも若い世代の話である。

2017年の国立社会保障・人口問題研究所の人口推計では、2065年には、男性40.9%、女性66.7%が90歳以上まで生存するとされる。現在50代前後の世代も「人生90年の時代」、「超長寿社会」が視野に入ってきた。

2018年に厚生労働省による「高齢期における社会保障に関する意識調査」では、「あなたは、何歳くらいからを老後と考えますか」を尋ねているが、その平均値は70.8歳であった。長寿の時代における高齢者のイメージは、変化している。

2.認知機能の低下に対応する――老齢を直視する必要性も

(1)加齢にともなう認知機能の低下

超長寿社会では、元気な高齢者にあわせて、様々な社会制度を変える必要がある。他方で、元気な高齢者を強調するあまり、加齢とともに発生する現実の諸問題を軽視することはできない。

いくら気持ちは若くても、身体はいろいろガタが来る。実際に、加齢とともに通院回数は増加し、医療費も増える。ガタが来るのは身体だけではない。神経・脳機能、すなわち認知機能も加齢とともに低下する。ここでの「認知機能の低下」とは必ずしも狭義の認知症を意味するわけではなく、認知症はもちろんのこと、軽度認知障害や加齢にともなう認知機能の低下を含む。

認知症の多数を占めるアルツハイマー病に関連する認知機能の低下の問題は、「記憶の符号化、統合化および検索」に関連する内側側頭葉領域における問題の発生とされている。アルツハイマー病のような疾病による認知機能の低下とは異なり、加齢にともなう認知機能の低下(正常範囲内の加齢性による変化)は、脳の腹側線条体の「注意刺激」または「情報処理」の要求が高い場合に発生するとされる。

一時記憶の低下、集中力・注意力の切り替え能力といった判断能力を支える「認知資源」は加齢とともに低下する。これら加齢に伴う認知機能の低下は誰にでも起きうるもので、日常生活に深刻な影響を直ちに与えるわけではない。しかし、疲労時、寝不足、急いでいる時や慣れない環境、ストレスがかかる状態、過剰な情報、心配事があると、判断ミスにつながる。

(2)加齢要素をくわえた二重過程理論

認知機能の低下、すなわち「認知資源」が少なくなると、熟慮せずに楽に判断したくなるため、高齢期には経済に関する意思決定に多くの課題が発生する。具体的には、①相手の説明に誘導されやすくなる、②計算や確率的な現象の理解が苦手になる(例えば、将来2年以内に地震が発生する確率と5年以内に地震が発生する確率の大小を判断する)、③リスクを伴う選択の検討が苦手になる、④自分自身の能力を客観的に評価できなくなり、自信過剰になる、などである。これらの事象は、消費者被害や金融資産運用における失敗、特殊詐欺の被害のリスクを高める。

年齢と経済行動に関する実証分析によると、経済合理的な行動ができる能力は、50代でピークを迎え、年齢に対して「逆U字」になるとされる。この現象は、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの二重過程理論に年齢による脳機能の変化を組み合わせると説明できる。

二重過程理論では、情動・感情によって起動する「ファスト(システム1)」の意思を熟慮が働く「スロー(システム2)」が制御することで、意思決定が行われるとしている。情動・感情がないと人間は意思決定ができないが、だからといって情動に任せて意思決定を行うと後悔することになる。情動・感情の脳の基盤は大脳辺縁系であり、注意力・集中力・記憶力・計画性といった認知機能を駆使する熟慮は前頭前野に基盤がある。前頭前野は最も遅く成熟し、最も早く老化する。このため、若い時は情動的な判断が優勢になりがちであり、前頭前野が成熟し、様々な経験を経た50代で情動・熟慮のバランスがとれた意思決定ができる。しかし、加齢とともに再び前頭前野が衰えて、高齢期では情動が優勢の意思決定が行われるということになる。

(3)脆弱な経済主体

EU各国では、経済活動における判断能力に不安や課題がある人を「脆弱な経済主体」とし、こうした人々を消費者被害から防ぎ、安心して経済活動ができるような制度改革が進められている。認知症・軽度認知障害は当然として、「正常加齢による認知機能の低下」によっても、高齢者は「脆弱な経済主体」になるリスクが上昇する。現実には、企業・業者は、営業手法・トークと称して、消費者の情動を刺激し、同時に熟慮機能を低下する手法を使う。悪質業者に至っては、意図的にそのような環境を作り、不利な取引に誘導する[インターネット上では、ダークパターンとも呼ばれる]。

日本でも、消費者の脆弱性の問題が課題になっている。消費者庁は、「消費者契約に関する検討会報告書」(2021年9月)で、消費者の脆弱性を①高齢者を想定した「消費者の属性に基づく恒常的・類型的な脆弱性」と②「消費者であれば属性を問わず誰もが陥り得る一時的な脆弱性」を整理して、「消費者が事業者との健全な取引を通じて安心して安全に生活していくためのセーフティネットを整備する」と指摘している。消費者の認知機能と脆弱性に関する議論は、2022年後半になり、消費者庁において消費者契約法の改正を視野に行われるようになっている。高齢化社会では、認知機能の低下につけ込むような経済取引は許されるべきではなく、関連する政策を進める必要がある。

もちろん日々のサービス・物品の取引だけでこうした問題が発生するわけではない。金額の大きい金融資産の運用においても、類似の問題が発生しており、高齢者の経済活動全般に関わる問題である。

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