【特集:認知症と社会】
座談会:「認知症とは何か」を社会とのかかわりから考える
2022/11/07
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加藤 忠相(かとう ただすけ)
株式会社あおいけあ代表取締役
1997年東北福祉大学社会福祉学部卒業。高齢者施設勤務を経て、2000年株式会社あおいけあを藤沢市に設立。〝誰もが居場所のある介護福祉〟を目指す。慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科非常勤講師。
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大石 智(おおいし さとる)
北里大学医学部精神科学講師、北里大学病院相模原市認知症医療センター長
1999年北里大学医学部卒業。博士(医学)。駒木野病院精神科、北里大学医学部精神科学助教等を経て2019年より現職。日本認知症学会専門医・指導医。著書に『認知症のある人と向き合う』等。
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石原 明子(いしはら あきこ)
熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授
2011年カリフォルニア大学バークレー校公衆衛生学大学院修了。14年イースタンメノナイト大学紛争変容大学院修了。08年より現職。専門は紛争解決学・平和構築学。紛争解決学の立場から認知症を見る。
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堀田 聰子(司会)(ほった さとこ)
慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科教授
京都大学法学部卒業。博士(国際公共政策)。17年より現職。専門はケア人材政策、地域包括ケア。「認知症未来共創ハブ」代表を務め、筧裕介著『認知症世界の歩き方』を監修。共監訳に『コンパッション都市』。
認知症との様々なかかわり
堀田 今日は「認知症と社会」というテーマを与えられて、皆さんにお集まりいただきました。高齢化の進展に伴い、認知症は誰にとっても他人事ではなくなってきています。まず、ご自身と認知症についてお話しいただき、「そもそも認知症ってなんだろうか」ということを考えていければと思っています。
最初に、認知症当事者でいらっしゃる樋口さんからお願い致します。
樋口 私は50歳のときにレビー小体型認知症と診断されて、9年が過ぎました。幻覚など症状はたくさんあるのですが、何だかまだ大丈夫でいます。ただいろいろ忘れるので、今日は考えたことをメモにして持ってきました。
先日、地下鉄の駅のデザイナーの方たちと高次脳機能障害のある文筆家、鈴木大介さんと駅構内を歩いて、わかりにくい表示を指摘するということをしました。拙著『誤作動する脳』を読まれて、意見を聞きたいと連絡をくださったのがきっかけでした。
認知症でなくても超高齢社会では駅で迷子になる人が増えるし、みんな困っているようです。でも、高齢者に問題点を聞いても上手く言語化できないので、文筆家であり脳に障害のある私たちの指摘や説明がとても役に立つのだそうです。こんなふうに社会の側が当事者に意見を求める場面が、この10年で増えてきていると感じます。
当事者の声が聞かれることは、とても良いことですが、気になる面も。認知症当事者の「ピアサポート」(仲間のサポート)が全国に広がり注目されていますが、良い面ばかりではないようです。
堀田 なるほど「当事者」ということが気にかかっているということですね。後ほど詳しく伺いたいと思います。
次に「介護屋」として、加藤さん。
加藤 私は藤沢市で25歳の時に自分で介護の事業所を立ち上げてやっています。それまでは特別養護老人ホームで働いていたのですが、自分が我慢できないものを、人に、「福祉です、介護です」と言って提供しているのが気持ち悪くて2年半で辞めたのです。
ちょうど介護保険が始まるタイミングだったので、自分で事業所を始めました。すごく変わっているように言われますけど、自分では当たり前のことを当たり前に介護保険の仕事をしていると思っています。
認知症社会というのは、「慣れていくスピード感」みたいなものではないかとも思っています。100年後には日本の人口が約半分になって、その4割が高齢者で、その半分が認知症みたいな社会にものすごいスピードで進んでいくのに、今の状態がずっと続くと思っている人が多数というのがとても変だと思っています。
こういった時代が来ることに、すごく短期間で適応しなければいけないので、医師・看護師・介護職が侃々諤々で議論しなければいけないはずです。「皆さん間に合うんですか」と最近思っているところです。
堀田 では、医療の立場で、大石さん。
大石 北里大学医学部の教員で北里大学病院精神神経科で診療していますが、相模原市から委託を受けて認知症疾患医療センターの運営もしています。
認知症や高齢者の精神医療には、医者になって2年目に、当時の医局長から、「給料のいいバイト先があるから」と、埼玉県の認知症の専門病院に連れて行かれたのが最初の出会いです。その病院では身体拘束もあるし、毎週行きながら、何か罪悪感を持っていました。その後、大学に戻ったら、「物忘れ専門の外来をするので手伝いなさい」と言われ、それ以来、大学病院の専門外来や認知症疾患医療センターの仕事をしています。
診療に携わる中で、医学や医療ができることは、頑張って何とか正しい診断をすることぐらいで、診断後のことは、本当に力が足りないなと思い続けています。
認知症のある人にケアを届けていく時の目的や目標は何だろうと考えると、それは医学的な治療ではなく、認知症のある人が安心して街で暮らせることになっていくことなのだろうと思うのです。
でも、まちづくりは医者がすることではないし、いろいろ迷いながら仕事をする中で、社会を構成する人々の認識に影響を及ぼすものは、「言葉」なのかなと思うようになりました。そこで樋口さんからも教えていただいたりしながら、本にまとめていけたらいいなと思っています。
社会と認知症の接点を考えると、認知症の診断基準の中に「社会生活の中で支障が生じるか」ということがあるわけです。そうすると社会が変わり支障が生じなくなったら、それは認知症と診断されなくなる。そう考えると認知症と社会の接点というのはすごく深いと思っているところです。
堀田 石原さんは「紛争解決学」で認知症を読み解こうとされています。
石原 私はこの中では、認知症の専門性が一番低いというか、認知症を語る資格から一番遠い立場にいるようにも感じています。当事者ではないし、介護をしていたわけでもない。研究も開始したばかりという状況です。
私の専門は紛争解決学という、人と人のもめごとや葛藤をどのように解決していくかという学問です。そういう分野が専門の私が認知症に関心を持ったところが、たぶん認知症の面白さというか大事なところだと思うのです。
樋口さんがあるエッセイで「人災」という言葉を書いていらっしゃいましたが、まさにそれなんですね。もともと興味のきっかけは、介護現場の方や在宅医療の方から、認知症の人の「問題行動」に関する話を聞いた時に、これは紛争解決の問題だと思ったことです。そこに、すごく人間の生々しい当たり前の姿があると感じました。
そこで初めて「認知症とは何か」という、医学的な定義を見たときにびっくりしたのです。教科書には、認知症の症状には、中核症状と周辺症状があると書いてある。周辺症状は、徘徊、暴言、不穏、妄想など、現在ではBPSD(行動・心理症状)と言われることが多いですが、これらは全て、病気の「症状」というよりは「紛争現象」ではないかと思ったのです。
例えば、徘徊するという「症状」があるという。でも、何で歩きまわってはいけないのかと思ったのです。ある人が歩くことが問題視され徘徊と呼ばれるのは、そのように歩かれては困る人がいるからこそです。認知症の周辺症状と呼ばれてきたものの多くが、人と人との葛藤つまり紛争だと思った時、そこで起こっている紛争が解決できたら、認知症の一番の苦しみの部分がなくなるのではないかと思ったのです。
認知症というのは私たち紛争解決屋から見ると、非対称紛争、すなわちその紛争の関係者の力関係に差がある紛争です。例えば、認知症当事者の丹野智文さんの本にもありますが、家族に認知症の方がいて、家族が介護疲れでうつになったときに「では認知症の人を入院させましょう」となる。でも家族と認知症の人は平等なはずなのに、なぜ認知症の人のほうを入院させるのか。平等ではない。力関係が非対称な葛藤の典型的な事例と思います。
もう1つ、平和学の概念で、構造的暴力、文化的暴力という言葉があります。その暴力というのは殴る蹴るではなく、その人の潜在可能性が生かされていない状態を指します。社会の構造や人々の考え方(文化)のせいで、その社会の中の一部の人たちの潜在的可能性が生かされない状態に置かれている場合、それを構造的暴力、文化的暴力と呼びます。社会の構造や考え方によって、一部の人たちの権利やニーズが侵害されている状態とも言えます。
現代社会で認知症をめぐる状況も構造的暴力や文化的暴力の一例だと思います。認知症になったら「もう何もわからないよね」という扱いになって、もっといろいろなことができるのに潜在的可能性が生かされなくなってしまったり、一人の人間としての自由や決定権が安易に奪われたりしてしまう。その意味で認知症の問題も、紛争解決や平和学の課題だと考えています。
認知症って何?
堀田 石原さんが、認知症とは何かを考えるにあたって、重要な視座を提示くださいました。
樋口さんは最近のエッセイでは、「人災としての介護困難」に陥る前に認知症を捉え直してほしいと書かれ、本の中では、「認知症っていったい何なんだ~ !? 」と叫んでいらっしゃいます。今、認知症って樋口さんから見て改めて何なんでしょう。
樋口 難しいですよね。深く知れば知るほど、わからなくなります。ついこの前もレビー小体型認知症と診断された方と会ったのですが、思考力も記憶も問題がない。でも、幻視があり、いろいろな全身症状もある。彼女も診断された時は「認知症!?もう終わりだ」と絶望したそうです。ネットを見ると今でも余命8年とか、古びた情報が書いてありますし。でも、私の本を読んで希望を持ち、今は趣味のドライフラワーを人に教えたりして楽しんでいるそうです。
認知症って何かというのは、「東京都民とは何か」くらい多様で一人一人違います。なのに、要介護5や介護困難な人に限定したような絶望的なイメージが浸透している。だからいまだに「診断=絶望」になっています。でも、進行が遅い人、仕事や趣味を続けている人も結構いらっしゃるんです。
最近読んだものでは、認知症と診断され、医者から「3年経ったら何もわからなくなる」と言われたのに、3年経ってもほとんど進行しない。逆に私は大丈夫なのかと心配になると。その気持ちはよくわかるんです。私も診断された時、進行については絶望的なことを医師に言われたのに、そうではなかった。
認知症は、多くの人が考えているよりもはるかに幅が広く、さまざまな病態や進行速度があるものなのに、ものすごく狭く歪んだイメージが浸透していることが深刻な問題です。
堀田 ある訪問歯科医の言葉が忘れられないと樋口さんは書かれていますね。「認知症の人は、普通の人」という樋口さんの話を聞いて「そうか!」と思われたということですが、それまでは何だと思っていたのでしょう。
樋口 何もわからない人、説明しても、挨拶しても通じないから無駄と思っていたのでしょう。だから家族とだけ話して、いきなり治療を始めたので抵抗されていたわけです。でも、そういうことは多くて、時々SNSで、「認知症の人の歯の治療なんて無理」という歯科医の投稿を見ます。認知症っぽくなってきたらすぐ歯の治療をしろと。医師や専門職が誤解と偏見を広めている例を少なからず見ます。
堀田 樋口さん自身は、診断を受ける前は、やはり認知症になったら何もわからなくなるというイメージを持っていました?
樋口 大丈夫とは思っていなかったです。10年前は何を読んでも絶望的な情報ばっかりでしたから。
堀田 診断前の樋口さんに今声をかけられるとすると、何と声をかけますか。
樋口 「未来のことはわからない」でしょうか。友人の中には進行の早い人もいるので、大丈夫と気楽には言えません。でも友人は、要介護5になった今も旅行を楽しんでいます。
多数派になる認知症
堀田 加藤さんは、先ほど「慣れていくスピード感」とおっしゃいました。大石さんがお話しくださったように、認知症は社会との「間」に生まれる支障であり葛藤であると捉えると、人の認識や社会システムがアップデートされていったら、だんだん葛藤は生じにくくなるかもしれませんね。
加藤 認知症の症状って要するに、くしゃみ、鼻水、せき、のどの痛み、腹痛などと同じことですよね。でも認知症の症状は他人から見えない症状ばかりです。おなかが痛くて転げまわっていたら周りの人は「大丈夫?」と言ってくれるのに、見えないから困った挙句の行動にしか見えなくて、その行動が、人から見たらおかしげに見えるわけでしょう。
その困っている症状が他人に理解されにくいわけです。だからその症状を見て「あ、これで困っているんだな」と理解できればよいわけです。
デイサービスの施設で7時間自分が座っていろと言われたら絶対無理ですよね。なんで自分が無理だと思うのに、いろいろなことがわからなくて困っている人が7時間座っていられると思うのか。
障害と同様に考えてよいのかわかりませんが、僕らは健常者だと思い込んでいます。それは圧倒的多数派だから健常者と思っているわけで、皆が車いすで僕だけ歩いていたら、「おまえ歩くなよ、邪魔だろ」と言われるかもしれない。少数派だから障害と呼ばれるだけです。
だけど、認知症は多数派になるんですよ。もう85歳の41%の人が認知症だし、90歳の61%、95歳だと80%が認知症なんだから、90歳になったら認知症じゃないほうが少数派です。女性の平均年齢が87歳ですから、90まで生きる人はもうざらだし、100歳以上が今年は9万人以上、18年後には30万人になると言われている。もう認知症になる人たちが圧倒的に増えていくのだから、マイノリティとマジョリティの関係が逆転する社会が押し寄せる。
その中で、今は過渡期だと思っていますが、その過渡期が短すぎるのが問題で、これがすごくゆるやかな人口変動の中で変わっていくのであれば、そんなに僕も大騒ぎしていない。でもこれは介護とか福祉、医療でどうにもならない社会の問題なんです。
だから、「年を取ったら認知症になるものですよね」という社会の理解が進むことが大事です。うちは介護現場でスタッフの子どもたちや地域の子どもたちが遊んでいるけど、その子たちはおじいちゃん、おばあちゃんを見て、「うわ、認知症の人たちがたくさんいる」とは思わない。同じことを2回ぐらいしゃべるけど、コマの回し方を教えてくれるおじいちゃんという感じで付き合っている。
認知症というタグ付けをされなかったら、ただのおじいちゃん、おばあちゃんなのに、何か壁の中から一生懸命認知症を理解してくださいとか言うのは違うのではないかと思いますね。
堀田 人口構造からみれば、着実に多数派になっていくわけですね。加藤さんが事業を始められて20年以上、近隣の認識、社会が変わってきたという手ごたえはありますか。
加藤 そこは時間がかかるところで、5歳だった子が15歳、20歳になって、たぶん文化って変わっていくものじゃないですか。
そもそも家族がもう三世代同居とかないわけだから、年を取った祖父母が困っている姿なんて見られない。今は家族という最小単位が壊れてしまって、現在も一人暮らしが一番多くて、18年後には40%を超える。そうすると家族という社会単位では社会の多様性なんか理解できないですよね。
地域密着型、地域共生社会の実現というのは、要するに地域の中で本当の家族ではなくても、お年寄りというのはこういうものだということを理解できる場ということですね。ご飯を食べに来たらそこでお年寄りがいろいろ教えてくれたという関係性ができるたくさんの場所、プラットフォームを作っていくイメージだと思うのです。そのプラットフォームの作り方が日本全体では中途半端であったり、進んでいない状況だと思います。
もう完全に日本の社会問題ですよね。東大の辻哲夫さんが言うように、本当に社会保障は「内なる国防」だと思っています。それは、「専門職が発想を転換する努力を本当にしているんですか」という話だと思います。
何でこのおじいちゃんはこんなに怒っているんだろうとか、何でこのおばあちゃんは帰りたいと毎日言うんだろうと考えた時、「あ、これで困っているからか」というメカニズムがわかるだけで、納得できるはずなんです。
堀田 決して「暴言・暴力」とか「帰宅願望」みたいな言葉で語られるようなことではないということですね。
加藤 鍵を閉められて、7時間ここにいてくださいと言われたら、それは「出たい」と怒り始めますよね。そうすると暴力が出ているといって、「すみません、先生、お薬で寝かせてもらっていいですか」となる。そんなのはケアではなくただの虐待です。そんなことがケア職の仕事です、みたいなことをずっと言い続けて、いまだに変わらない人たちも多い。
時間はかかると思います。でも、その時間を詰めていくのは、子どもたちにどうアプローチするかだと思う。それは学校の教育ではなくて、日常体験の中でどういう環境を大人が準備するかではないかなと思います。
2022年11月号
【特集:認知症と社会】
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樋口 直美(ひぐち なおみ)
文筆家
1962年生まれ。50歳の時にレビー小体型認知症と診断される。多様な脳機能障害、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状などがあるなか執筆活動を続ける。著書に『誤作動する脳』『私の脳で起こったこと』等。