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【特集:国際秩序のゆくえ】
座談会:ウクライナ侵攻後 世界はどう変わるのか

2022/07/05

ロシアの思惑

加茂 ロシアから見て戦争の目的はもはや大失敗しているのだけれど、なぜ今ロシアはこういう選択をしなければいけなかったのか。ロシア自身の国際秩序観がどういうところにあったのか。大串さんいかがでしょうか。

大串 神保さんが、古典的な戦争がこれほど大規模なものになると思わなかったと言われましたが、ロシアも最初は短期決戦で終わらせるつもりだったのだと思います。ところが思った通りに行かなかったということですね。

これはどうしてなのかというと、ドンバスを守ることとウクライナをNATOに入れないことが、根本的に矛盾するのですね。推測ですが、プーチンが決断するプロセスでは、ウクライナ軍がかなり攻勢を強めていたようなので人民共和国に泣きつかれたのだと思います。しかし、「ドンバスの地域だけ保護しますよ」といって軍隊を出して、ドネツク・ルガンスクだけを取ると、ウクライナがもっと右傾化し、NATO寄りになるのは明らかなわけです。

だから、これらの人民共和国を守るということと、ウクライナをNATOに入れないということの両立がそもそも難しくて、だったらもう政権を転覆するしかないということになったのではないか。もっとも軍隊内でも全面侵攻派とドンバス限定派の中で随分対立があったようで、結局全面侵攻派のほうが勝利したようです。

ただウクライナを完全に占領するには兵力が足りないのは、やる前からほぼわかっていたので、おそらく少ない兵力ですぐにキーウを取れるという思い込みがあったのではないか。それが思った通りにいかずに、ずるずるとドンバス限定案に近いものになりつつあるのが現状なのかと思います。

戦争前は、ミンスクⅡをウクライナに受け入れさせ、ドンバスをウクライナに押し付けてウクライナを連邦化し、ドネツク・ルガンスクが拒否権を持つのでNATOに入れない、というのがロシアのプランだったと思うのですが、これはウクライナも受け入れる気がなかったし、実は人民共和国側も受け入れる気がなかった。両当事者が受け入れる気が全くない協定だったので、これを飲ませるのは非常に困難だったと思います。

ですから、この後の秩序を仮にドイツ、フランス、ロシアでつくるにせよ、当事者たちが受け入れられるようなものでないと、おそらく実行は難しいと思います。

さらに言えばNATOの拡大はロシアから見るとロシア封じ込めに見えますが、実際は東欧諸国はロシアが怖いから入れてほしいのであって、アメリカも遠慮がちにしょうがないから入れてあげると、ロシアは、「これは封じ込めだ」と受け取るという、ある種不幸な連鎖があったのだと思うのです。

そこでも仮にNATO拡大以外にチョイスがあったとしても、当事者の東欧諸国が受け入れられるようなものでないと、おそらく難しかったのだろうという気がします。そうすると「戦争は起こるべくして起こった」みたいな話になってしまうのですが……。

結果として戦争をやってしまい、これはロシアの壮大なオウンゴールになってしまったのは間違いがない。今のところロシアがこれだけのことをやっても上手くいっていないというのは、現行の国際秩序にとっては、おそらくまだましなのでしょう。これでロシアが何らかの意味で得をしてしまうと、細谷さんがおっしゃった通り、真似する国々が出てきかねない。

ただその反面、言われたように、意外にいわゆる先進諸国以外の支持はない。そうしたところから見ても、ここから先この戦争がどう終わるにせよ、欧米とそのほかの国々の溝はこの戦争でかなりはっきりして、そのまま当面の間、残るのではないか。

細谷さんがおっしゃった19世紀的な国際秩序という話ですが、私はソ連にせよロシアにせよ、一貫して秩序観は19世紀的だったような気がします。ソ連時代は東欧諸国までは勢力圏で、だからハンガリー動乱を鎮圧したり、チェコスロバキアに兵隊を入れたわけです。ウクライナ侵攻も発想としてはその延長線上のような気がしていて、冷戦が終わった時に西側の秩序が全世界を覆ったかのように見えたわけですが、実はロシア側の秩序観はほとんど変わっていなかった。このひずみが、この段階で爆発してしまったというところもあるのかと思います。

アメリカの戦略

加茂 中国の視点で話すと、今後の国際秩序のゆくえを考える時に、中国がウクライナ侵攻を通じて何を学習しているのかという視点は重要でしょう。

中国があらためて確認したのは、1つには、先ほども述べたように、ロシア制裁に対して国際社会は一枚岩ではないということです。東南アジアに目を転じればシンガポール以外は制裁に賛同していないという姿は、中国から見れば、さまざまな可能性のある世界が広がっているのだと思います。

もう1つ、中国自身はロシアの戦い方を通じて、核兵器の使い方を学習しているのではないのかという気がするんです。結局のところ、ロシアの核兵器は、アメリカとNATOの地上軍による介入を効果的に抑止しているように中国からは見えるのではないか。中国の核兵器の使い方は、今、日本を含む国際社会が再確認しておくべき論点かと思います。

一方、アメリカはいかがでしょうか。

 今回のウクライナへの対応でのアメリカの軍事支援のあり方の問題ですが、「ポスト・プライマシー」時代のアメリカの現状防衛の戦略は一体どうなっていくのかが1つの重要なテーマになっていくのではないかと思います。

プライマシー時代(卓越した優位にある時代)のアメリカの現状防衛のアプローチはやや誇張して言うと、ルール違反のあるところに世界の警察官として出ていき、違反国に対して必要な経済制裁を科し、場合によっては武力で制裁する。これが親ブッシュから子ブッシュまでのアメリカの姿だったと思います。

それがオバマ、トランプ、バイデンという「ポスト・プライマシー」時代のアメリカの指導者の下では、やや極端に言えば、諸外国を2つに分けて、守り方を変えていくという発想の下で判断を下しているように見えます。つまりアメリカの平和と繁栄にとって重要な同盟国は直接防衛し、それ以外の国は軍事援助と侵略国への経済制裁という組み合わせで対応していくという、「ウクライナ・モデル」の発想で対応するように見えます。要するにアメリカは誰のために血を流すのかということで、同盟国とそれ以外を分けている。

ただし、注目を集めている台湾については、いわゆる同盟国ではありませんが、冷戦期の西ベルリンのような位置づけになりつつあります。サリバン国家安全保障問題担当大統領補佐官は、「台湾関係法があるから、台湾はウクライナとは違う」と説明しました。バイデン大統領も、もし台湾が中国に攻撃されれば、アメリカは台湾を防衛すると明言している。つまり、同盟国でなくとも、アメリカが死活的に重要とみなす相手であれば、同盟関係がなくとも直接守るということです。

このような「ポスト・プライマシー」のアメリカの出現は、諸外国にとって何を意味するのか、その含意を2つほど指摘したいと思います。

1つは西側諸国で現行秩序を守りたい国々は、秩序の主たる担い手はアメリカだという意識を変え、自分たちでコストを負って秩序を守らなければいけないという自覚を持ち、ルールに基づく秩序の担い手としての役割と責任を積極的に負っていく必要があるということだろうと思います。

もう1つは、アメリカが「世界の警察官」をやめるということが直ちに同盟国を見捨てることを意味するわけではないので、過剰反応する必要はないということです。同盟国を侵略国から守るという意思は、オバマですら強固でした。オバマの回顧録を読むと、2014年にウクライナの問題に対応した時のオバマの判断は、ウクライナは、アメリカが直接介入して守れる国ではないと、冷徹なことを言っている。

ウクライナを巡ってもしロシアと直接戦うことになれば、最終的にロシアにとってのウクライナの重要性とアメリカにとっての重要性を比べれば、当然ロシアにとっての重要性のほうが高い。だから、結局エスカレーション合戦で根比べをすれば、最終的に降りるのはアメリカなので、はじめからエスカレーションのスパイラルを招くような関わり方をすべきではないという判断をしていた。極めてオバマ的と言いますか、学者的で論理的な判断基準で対応している。

一方で、クリミアの併合をめぐる動きが出てきた直後、オバマは側近に、「NATO諸国にもし手を出したらアメリカは戦争するということを、しっかりとプーチンに理解させなければいけない」と述べていたことがわかっています。要するに、アメリカがウクライナに直接介入して防衛するという選択肢をとらないからといって、同盟国に対するアメリカの防衛コミットメントまでが揺らぐわけではありません。トランプはかなり危ういところがありましたが、戦争を覚悟して同盟国を防衛するという認識は、バイデン大統領に引き継がれていると思います。

アメリカが力の行使を自制すると、アメリカは内向きだからもう駄目だといった極端な反応がすぐに出てきますが、そういう印象論ないし感情論は不正確なアメリカ理解を導き、過剰反応の原因になりかねません。

今回ウクライナに直接軍事介入しないというバイデンの判断は、核戦争に至るかもしれないということと、ロシアと戦うコンセンサスがNATO諸国の間でできていなかったということが大きかったのではないかと思います。また、アメリカ世論をみると、核戦争を覚悟してまで戦えるかという質問に対しては、6割ぐらいが戦うべきではないと回答しています。この3つの要素がアメリカの直接武力介入を止めていると思います。

核戦争のリスクと国内世論、そして同盟国に配慮する政権だからこそ、そこでブレーキがかかってしまうわけです。国内世論を強く意識した対応をとろうとするアメリカに対する一抹の不安があるのはわかりますが、国内世論の動向だけで対応を決めているわけではないという理解を持つことも重要だろうと思います。

「戦後」の欧州をどう考えるか

神保 細谷さんが冷戦後の30年間における欧州の安全保障の枠組みについて述べられたことは大変重要だと思っています。

欧州もまたどういう秩序が安定的に推移し得るか、その際にロシアをどう扱うべきかと、何度も試みたわけですよね。その中で、NATOをロシアと共存可能な形にしようとする試みもあれば、EUの戦略的自立性を強化してヨーロッパの秩序をつくっていく中間解のようなものを強化する時期もあった。しかし、やはり制度を一元的に定義するのが難しい時代に入ったと感じます。

3月下旬から4月上旬ぐらいまで、ウクライナが中立化は受け入れてもいいという時期がありました。つまりNATO加盟についてはロシアの言う通り、将来の加盟はないというところから議論をスタートしてもいいという交渉ポジションを取った。

そしてNATOとは異なる安全保障を多国間で模索した時期は確かにあったのですが、ブチャの虐殺発覚以後、そしてトルコにおける交渉が不調に終わって以後、それらのユニークな安全保障モデルの話は消えていった。ウクライナに対して米欧諸国とロシアを含む、新たな多国間の「安全の保証」を成立させるのは困難です。

残された道筋は、具体的な戦況がどう推移し、それが紛争の終結にどう結びつくかという形から逆に秩序が定義されていく形態となる。

その中にも、いわゆるベルサイユ体制型か、それともミュンヘン型かみたいな振れ幅があります。ベルサイユ型というのはロシアに敗北を決定的に認めさせ、奪った土地を全部返させてウクライナの主権を回復し、賠償を含む経済的なペナルティーを与えるというやり方ですが、その後のアナロジーを考えると、それで本当に欧州とロシアとの中長期的な関係を築けるのか。ナチスドイツ台頭の悪夢がヨーロッパの中にはあるのだと思います。

もう1つはミュンヘン型ですが、これはドンバスを認めるということが、やはりミュンヘン協定の時のズデーテン割譲を認定してしまうことを想起させる。つまり、ナチスに対して妥協して失敗したという歴史が、身体知みたいな形でヨーロッパの中には染み付いている。だからドンバスでケリをつけようじゃないかということに対する抵抗は、相当強くある気もします。

実際、ロシアがドンバスで軍事的な優位に立った後は、再びキーウを侵攻する可能性がまことしやかに語られることから考えても、停戦を定義することがいかに難しく、またそれを支援するヨーロッパ側の着地点も難しいと感じます。それゆえに今年末まで戦闘は続くという見通しになっているのではないか。

最後に、広い意味での世界の秩序が今後も本当に続いていくのだろうかという不安があります。国連安保理はそもそも期待は高くない。しかし、過去10年、20年かけてつくった、ロシアをインクルーシブな形で巻き込んだ国際組織はたくさんあるわけです。

G20とか、アジアではAPEC、そして東アジア首脳会議、すべて首脳級の多国間の枠組みとして協力をしていこうということでした。しかし「国際秩序を根本から揺るがす」ような首脳が会議場に出てきて握手をするなんてことは想像できない。

そうであれば、むしろ新しい枠組みをつくるとか、あるいは紛争当事国である国は一時的に資格を停止する発想が必要となるのか。このあたりの話は私もまだ判断がつきませんが、重要な論点だなと思っています。

細谷 神保さんがおっしゃった、ドンバスとズデーテンラントのアナロジーは、私も全く同じことを考えていました。これはミュンヘンの時と非常によく似ていて、ミュンヘンの時もチェコスロバキアの意向を無視し、大国だけで合意をしてそれを押し付けようとして破綻した合意でした。破綻のロジックがまた違いますが、大串さんがおっしゃった通り、ロシア、ソ連は一貫して勢力圏の構想を持っていて、19世紀的な秩序観というのは、私も全くその通りだと思います。

冷戦終結後に描いたような自由主義、民主主義、資本主義が世界中に広がっていくというのはやはり幻想だったと思うんですね。世界の中でそれが共有可能な国々、地域は非常に限られているし、グローバルサウスを考えた時に、今、日本が欧米と協力してロシアを批判している勢力が、必ずしも国際社会のマジョリティーになっているわけではないという冷酷な現実がある。

これはドイツも含めてですが、各国とも自国の利益の下に行動すれば、ロシアとの天然資源の貿易を優先したいということもあり、それを犠牲にするのはあまりにもコストが大きいという発想がある。あるいは自国の利益と直接関係ないウクライナの問題で、ロシアと全面的に対決をしたくないという思惑もあるかもしれません。

 冷戦終結後のヨーロッパとアジアの平和や秩序の根底には、ロシアや中国に認められるべき「正統な利益」なるものはあるのか、あるとすればそれは何なのかという難しい問いがあったのではないかと考えています。中国とロシアが外交を通じて安全保障の問題に取り組んでいる間は、「正統な利益とは何か」という対話が可能です。しかし、交渉せずに、一国主義的な大国主義に駆られた、一方的な現状変更や他国への威圧を始めると、対話や交渉ができなくなっていくわけで、2014年以降のロシアや中国と西側諸国との関係は、そのようなプロセスを辿ってきたとみることができるかと思います。

国際政治にorder とjustice という言葉があります。1つは細谷さんが19世紀的秩序観とおっしゃった、主要国の安全保障をある程度満足させる最大公約数としての了解に裏打ちされた「均衡」をとにかく重視する秩序重視の国家の営みです。最低限のルールの共有の上に成り立つ均衡ですが、ある種の没価値的な側面を有しています。

いま1つは個人の精神的な自由などを尊ぶリベラルな価値規範を重視する正義重視の国家の営みがあります。それぞれの国が自らの選択によってリベラルな価値規範を受け入れたなら、諸外国はそれを尊重すべきで、それは究極的には人類の発展と進歩に資するという考え方で、普遍主義的な側面があります。

政治体制の異なる諸国家間の利害対立を巧みに管理していくためには、これら2つの考え方を上手くバランスさせていかなければならないわけですが、ここ10年ほどの国際関係の大きな流れの本質は、一国主義的な大国主義に憑かれた指導者の下にある中ロが、現状変更行動やリベラルな価値規範を踏みにじる行為を重ねていく中で、西側諸国で正義重視の発想が強まり、それに中ロがさらに反発していくという国際政治の力学にあるのではないかと思います。この問題は、ウクライナにおいては、戦争の出口をどこに設定すべきかという問題として現れてくるわけで、交渉のあり方を非常に難しくしています。

結局、「正統な現状」に合意していない国々が互いに認め合うことができるかもしれない「正統な利益」は、客観的に決まるというよりは、外交プロセスや相互作用の中で、信頼が築けるか築けないかで大きく変わるのだと思います。私は、アメリカはいわゆるポスト冷戦期に、中ロとの信頼関係を構築するために、不十分なところもいろいろありましたが、他方で中国のWTO加盟を後押ししたり、ロシアのG8入りを実現させたり、それなりに努力してきたと思います。そしてそうした取り組みを批判する声は圧倒的少数だった。

しかし中国とロシアの指導者らは、国際協調を表面的に謳いながら、一国主義をベースにした政策や行動を進めていきました。その結果、諸外国からの反発に遭い、自分たちが国際社会に認めさせようとしてきた、自らが「正統」と考える利益の正統性をどんどん低下させることになりました。

また、地域大国の指導者が軍事力で自分の利益を実現しようとすることにはもう1つ大きな問題があります。それは独裁者が自分の信念に基づいて侵略行為に及んでしまうという「独裁者リスク」みたいなもので、今回ウクライナでそれが現実化してしまったということだと思います。

独裁者相手との交渉では、リベラルな価値規範というものが紛争解決の共通基盤として機能しませんので、力のせめぎ合いの結果結ばれる暫定合意は極めて心許ないものになります。そうすると、「中長期的には」、その体制自体が変わらなければならないという考え方がやはり出てくると思います。無論、混乱や混沌を望むということではなく、ロシアに対しては、侵略を巻き返しながら広範に及ぶ制裁をかけていくということで、それが長期的な封じ込めになっていくのではないかと思います。西側諸国は、同じような発想を持たない国々とどのような考え方に立って関係を築いていくのかが重要な課題になっています。

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