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【特集:国際秩序のゆくえ】
鶴岡路人:NATOの冷戦後──秩序形成の模索と残された課題

2022/07/05

  • 鶴岡 路人(つるおか みちと)

    慶應義塾大学総合政策学部准教授

欧州における冷戦終結から30年あまりが経過した。冷戦、およびその終結が大きな出来事であったため、その後の時代は「冷戦後」と呼ばれてきた。2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵略を受け、冷戦後が終焉を迎えたとの議論が増えている。では、欧州の国際関係、特に安全保障秩序において冷戦後とは何だったのか。

欧州の安全保障において中心的な役割を果たしてきたのは、米欧の同盟である北大西洋条約機構(NATO)である。ロシアによるウクライナ侵略をめぐっても、NATOの役割への注目が高まっている。米欧の安全保障が今後もNATOを軸に推移することは確実だろう。

そこで本稿では、冷戦後と呼ばれた時期のNATOの役割の変遷を振り返り、欧州の安全保障秩序がいかに形成され、同時にどのよう問題を抱えてきたのかを分析する。

全体として浮かび上がるのは、加盟国の安全保障の確保という目的に沿って、自らの役割と活動を柔軟に変化させてきたNATOの姿である。そして、欧州の一部として存在しながら異質な要素を強く有するロシアを、欧州秩序にいかに取り込むのかという課題に答えを見つけられないままだったのも、冷戦後の重要な一側面だった。

冷戦後の存続

NATOが東西冷戦を戦うための西側の軍事同盟だったとすれば、それが冷戦後においても維持されることは必然ではなかったのかもしれない。実際、冷戦終結直後には、役割の終わった同盟は解消すべきといった議論や、不可避的に崩壊するといった予測が盛んに語られた。

しかし、冷戦が終結した時点で、NATOが生き残ることはすでに既定路線になっていたといってよい。そもそもNATOはソ連の軍事的脅威に対処することのみを目的とした組織ではなく、価値を共有する米欧が結束することを謳った価値の共同体でもあり、NATOは自らを「政治軍事同盟」と呼んできた。単なる軍事同盟ではなく、「政治」が入っているところに重点がある。

さらにドイツ統一が、最終的な冷戦終結の帰趨が決せられる前の1990年10月に、統一ドイツのNATO帰属という方法によって実現したことは、その後の欧州秩序におけるNATOの中心性を方向づけた。欧州秩序が未曾有の変革を経験するなかで、NATOは安定性と予測可能性を維持するための砦のような存在になったのである。

加えて、ソ連は崩壊したものの、その継承国家であるロシアが、米国と並ぶ大量の核兵器を保有する大国として欧州大陸に存在し続けたとの現実も存在する。このことは、欧州周辺地域における紛争などの不安定化とともに安全保障上のリスクとして認識されることになった。そうである以上、NATOをすぐに解消することは、欧州諸国にとって現実的選択肢ではなかった。実際、世間の議論としてではなく、政府レベルにおいて、NATOの解消が現実的課題として検討された形跡はない。

結局、米欧間や欧州諸国間の協力を継続する必要性、ロシアや地域紛争に関するリスクへの対処、他の信頼できる代替策がなかったことなどから、NATOは継続することになる。冷戦終結を好機として汎欧州的な秩序を模索すべきだったと批判するのは簡単である。しかし、安全保障の確保は各国政府にとって重い責任であり、将来が不透明ななかで、すでに確立され成功してきたものを捨て去るべきだったと軽々にいうことはできない。

集団防衛から遠征任務へ

そうして出発地点に立ったNATOの冷戦後は、同盟の目的の変化を経験することになる。ソ連という明白な脅威が去り、1990年の戦略概念でNATOは多面的なリスクへの対処に舵を切ったが、すぐに当初の想定を超える変化に直面することになった。

旧ユーゴスラヴィアでの危機管理(平和維持)任務である。1995年に成立したボスニア和平の履行のための部隊派遣に始まり、コソヴォに関連してはセルビアへの空爆を実施するなど、「行動する同盟」に変化を遂げた。冷戦時代を抑止主体の「存在する同盟」で過ごしたNATOにとっては新たな経験だったが、多国間での計画や作戦実施こそ、NATOが冷戦期から備えてきたものであり、NATOは持てる能力を発揮することになった。

ただしそれはまだ、欧州大西洋地域に制約された話であった。しかも、旧ユーゴでさえ「域外(out of area)」とみなされ、同盟としてどこまで関与すべきかが当時は議論されていたのである。

そうした状況に変更を迫ったのが、2001年9月11日の米国に対する連続テロ攻撃だった。NATOは集団防衛を規定する北大西洋条約第5条を史上初めて発動し、さまざまなかたちで米国を支援することになった。アフガニスタンのタリバン政権に対する攻撃に実際に直接参加したのは英国など少数にとどまったが、2003年8月からは、国連マンデートに基づく国際治安支援部隊(ISAF)の指揮をNATOがとることになった。それを通じてNATOはアフガニスタンに全面的に関与することになり、同盟の活動範囲は、欧州大西洋地域を大きく超えたのである。

9・11を受けてNATOは、「必要であればどこへでも(wherever needed)」という原則を新たに打ち立て、実践していった。ただし、2003年のイラク戦争への対応においては、米国を支持する英国や中東欧諸国と、米国を強く批判したドイツやフランスなどとの間で、NATOは深刻な内部分裂を経験した。

それでもNATO全体として、新たな時代における軍隊の役割は、もはや領域防衛ではなく、旧ユーゴやアフガニスタンのような危機管理、そして遠征任務になることに関しては、おおまかなコンセンサスが存在していたといえる。1990年代から2000年代半ばまではそのような時代だった。集団防衛は後景に退いていた。別のいい方をすれば、ロシアに対する抑止・防衛の優先順位は低い状態が続いていたのである。

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