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【小特集:東京2020と慶應義塾】
〈東京2020空手競技の運営〉空手悲願のオリンピックデビューと塾員の果たした役割

2021/12/16

  • 奈藏 稔久(なぐら としひさ)

    三田体育会会長、(一社)三田空手会会長、世界空手連盟事務総長

今夏の東京2020では日本武道館においてオリンピック史上初めて空手競技が実施されました。全世界の空手関係者悲願のオリンピックデビューが実現した歴史的瞬間です。この夢の実現と当日の競技運営まであらゆる場面でご支援、ご協力いただいたすべての皆様に心より厚く御礼申し上げます。

そしてここに至るまでの空手の歴史の中で、本塾空手部、三田空手会員の果たしてきた役割と事跡を見るとき、前半は見えない糸で、後半は文字通り太い糸でオリンピックデビューに直結し、深く関わってきたことが分かります。

1924年、法学部教授粕谷真洋は後に空手中興の祖と呼ばれる船越義珍を本塾に招聘、世界初の大学空手部たる「唐手研究会」が誕生します。5年後には唐手を「空手」に改め、沖縄で一子相伝とされた打撃武術は日本武道としての道を歩み始めることになります。

1957年には本塾、拓殖大学、東京大学などの関係者の努力により世界初の空手競技(組手)が実施され、これが今日のオリンピック競技の原型になりました。空手が武道の本質を失わず安全なスポーツ競技への止揚を遂げ、産声をあげた瞬間です。三田空手会員、下川五郎、小幡功、伊藤俊太郎、高木房次郎、岩本明義、真下欽一、吉和田哲雄等はこの歴史に深く関わった方々です。

空手はその後全世界に瞬く間に拡がり、1970年世界空手連盟(WKF)設立、第1回世界選手権が開催されます。ここで本塾空手部員和田光二が見事優勝を遂げ、世界的スポーツ空手のデビュー場面でも本塾空手がその存在感を示します。

時代は下りWKFはオリンピック実施種目実現を目標に活動を展開、高木房次郎はここでも中心的役割を果たします。しかしIOCの壁は厚くその承認団体になるまでに30年弱を要し、満を持して臨んだ実施種目審査では2013年(東京2020)を含めて3回連続で最終選考に残りながら落選の憂目に遭っています。

2013年、東京2020落選直後、ほとんど偶然ともいえる経緯から筆者はWKF理事に就任、わずか一年後には事務総長に就任することになります。その直後 “IOC AGENDA 2020” 改革案が発表され、奇しくも東京2020で組織委員会推薦の「追加種目」として空手復活の可能性が現実味を帯びることになります。

東京でのオリンピックキャンペーンは各界を巻き込んでの一大プロジェクトとなりましたが、結果的には大成功を収め、2016年IOC総会でついに東京2020追加競技として承認されることになります。

このプロジェクトの中で物心両面にわたり最も顕著な支援活動を行ってくれたのが近藤彰郎(現三田空手会副会長)であり、全日本連盟オリンピック対策本部統括の役を担ってくれたのが里見和洋(現三田空手会理事)です。そして極めつけが組織委員会スポーツ部門最高責任者「スポーツマネージヤー」村田利衛(現三田空手会理事)でしょう。

こうして空手のオリンピックデビューは多くの空手愛好者、なかんずく塾員の強い結びつきのなかで達成することができました。「天の時に遭い、地の利を占め、人の和を得て大業なる」という言葉の意味をしみじみ感じる経験となりました。

実際の運営については、村田君に稿を譲りたいと思います。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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