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【特集:公園から都市をみる】
座談会:公園がそこにあり続ける意味とは

2021/06/07

「場所」の情報をアーカイブする

深澤 私は、すべての公園にヒューマンドラマがあるのではと思っています。例えば、「愛のひとかけ運動」といって花壇にジョウロを1つ置いて、植物に水を撒いてもらうことを誘発する活動をしている団体があります。

公園というのは例えて言えば高校野球の応援のようなものだと思うのです。大阪桐蔭のような全国レベルのチームを応援する人もいれば、自分の子どもの高校の対戦結果も気になります。高校野球の世界で起こるドラマのようなものが公園1つ1つにあって、コトブキのリサーチは高校野球の取材のように全国各地の公園のドラマを探し求めるものでもあります。

そこには甲子園優勝を目指すだけが必ずしも高校野球ではないということに似た、地域ごとのエモーショナルな感じもあります。

石川 面白いお話ですね。公園が持つ物語と言えば、この特集にも論考を寄せている進士五十八先生の『日比谷公園──100年の矜持に学ぶ』は日比谷公園の歴史、生き様を描いた本ですが、深澤さんが言う通り、そのような物語や可能性はそれぞれの公園にあるわけですよね。

深澤 最近のSNSはフェイスブックもツイッターもインスタグラムも、すべて人が主体です。これらには場所に紐づけられた情報がアーカイブされる場所がありません。

しかしこの場所でどういうことがあったのか。公園には住民ドラマが起こる舞台として、街の歴史的アーカイブとなるバリューがあるのではと考えているんです。

長田 昔、地理学会で見たリサーチに、ある観光地でツイートされた記事のハッシュタグを集めると、誰がどれくらいの頻度で投稿したかが場所ごとにわかるというものがありました。そうした情報を時系列に重ねると場所の歴史やそれに関係した人々のドラマが蓄積されるというイメージでしょうか。

深澤 そうですね。そういった情報にはある程度の「オフィシャル性」が保たれる必要があると思います。僕らも場所のSNSを国交省と連携しながら運営していますが、ハッシュタグのフィルタリングだけでは否定的な投稿や限られた趣味嗜好の話題も含まれるので、レギュレーションをどこで線引きするかという課題が残りますね。

自分ごととして関われる公園

竹内 私も場所について最近考えていることがあります。それは公園が自分ごとになっている人がどれだけの数いるのかということです。これまで公園の価値といえば、1人当たりの面積や生物多様性、気温を何度下げているかといった条件で測られていましたが、公園を自分ごとにしている人の数というのは大事な指標ではないかと感じています。

昨年、高井戸公園という大規模公園の一部が開園した時、コロナ禍で雨が降っていたこともあってオープンの日に人があまり集まらなかったのです。同様に3年ほど前に善福寺公園の中に「みんなの夢水路」と呼ばれる、区が整備・管理する小さな水路がオープンしました。小学生が入れる川をつくりたいと区長に提案して実現したプロジェクトで、オープニングの日には小学生やそのお母さんたちも大勢参加してとても賑やかで喜んでいました。

工事課の職員たちはどの公園づくりにも一生懸命に取り組んでいますが、高井戸公園の住民説明会では住民の方から「うちの敷地境界の部分はどうなるんだ」とか、「公園ができるのは防犯上心配だ」という苦情・要望しか出てきませんでした。こうした違いは何だろうと思ったのです。

やはり設計や整備の段階から、公園づくりを自分ごととして感じられる人を少しずつ増やしていかなければならないのではないかと思うのです。立地や面積で比較すると高井戸公園の方が地域への貢献度は高いはずですが、周りの人が感じる幸福度はオープン時の瞬間だけをみても全然違うのです。

長田 とても対照的な例ですね。

竹内 深澤さんの「愛のひとかけ運動」の話を聞いて、やはり自分がこの公園に関わっていくんだという意識を高める仕掛けが公園づくりには必要だと感じました。

清瀬市の「(仮称)花のある公園」でも二子玉川と同様、用地買収から完成までの2年間、住民に参加してもらい、公園ができたらこんなことをやりたいという人を育てています。これからの公園づくりにはこうした仕組みを入れないといけないのだろうと感じています。

石川 私は寂しいオープニングを迎えた高井戸公園の担当者を慰めてあげたい。というのも、100年のスパンで考えれば公園が役に立たないわけがないからです。

竹内 有り難うございます。その日は雨の中、赤ちゃんを抱えたお母さんが「楽しみにしていたんです」と声をかけてくれたのが救いになりました。

石川さんのお話の中に「遊んでいい感」とか「ここにいていい感」という話がありましたが、この感覚はとても大事だと思います。私は砧公園にインクルーシブ広場を整備する際に監督を務めたのですが、先ほど深澤さんのお話にあったように、「インクルーシブ」と呼ばず、「みんなのひろば」と名づけ、どんな子も遊びに来ていいというコンセプトを積極的に広報しました。

すると、アンケートで障がいのあるお子さんの保護者の方から「『行っていい』というのがすごく嬉しかった」という声が寄せられました。「いいんだ」を何らかの形で示すのは大事なことですね。

石川 逆に「いいんだよ」を示しすぎると強い記号になってしまい、やりたくない人たちへの抑圧にもなりえます。どう伝えるかというのはなかなか微妙なポイントですね。

深澤 以前、都内のある広大な私有地の売却方法をめぐって相談に来られた方がいるのですが、その時に私は「コミュニティファーストの時代になっている」といったことを話しました。その土地にどんなものをつくるかという前に、どれだけそこにコミュニティが育っているかがポイントなんです。

例えば、売却してマンションが建つにせよ、ポケットパークのようなものは必要になりますよね。その時、地域の人たちと良好な関係ができているか否かで土地の価値は変わるはずなのです。1つの公園にどれくらいの数の人を巻き込めているかというのは重要な視点だと思います。

「動かせない」ことがもつ価値

深澤 今、公園のフォロワー数がわかる自社アプリを普及させているのです。藤沢市が熱心に協力してくれているのですが、1つ1つの公園の地域ごとのフォロワー数や利用状況の可視化から、公園がどれほど活性化しているか、地域に貢献しているかがわかる仕組みです。

例えば、日比谷公園のフォロワー数は一般的な街区公園の数十倍ですが、アプリの普及はこうした差を埋めようというのではなく、公園利用に巻き込まれていることの価値や地域の文脈みたいなものを皆さんに知ってほしいのです。いい公園をつくれば人は集まるという時代でもなく、利用者が積極的に関わる仕組みが必要だということが浸透しつつある手応えがあります。

長田 皆さんの話を伺うと、何だかまちづくりの授業を聞いているようですね。当事者として街に関われる人をどれだけ増やせるか、といった話は都市計画の教科書にも出てきますが、今、公園がまさにそのような実践の場になっているのですね。

深澤 ただ、今はトップダウンではなくても、ボトムアップとも言い切れない時代だとも思います。大規模な公園の整備方針を立てたり、用地買収を行ったりする時には、住民の方に対してどうぞ自由にやってくださいとはならない。ある一定の制限の中で巻き込んでいく、このバランス感覚が大事だと思います。

その感覚を担保するために私たちは今、遊具の動産化に取り組んでいます。遊具は一度設置したら20年はそこにあり続けなければなりません。当社の製品は30年保証なのでさらに10年置かなければならないのですが、それを簡便な工事で移動可能にするテストケースを試みていて、昨年は東京都とやらせていただきました。

もう少し公園にフレキシビリティがあってもよいと思ったんですね。大きな指針は自治体に委ねながら、住民のカルチャーやカラー、日常的な気づきの中で即興的に変えていける公園整備はどこまで可能か、そのバランス感覚が重要なのでは、と思っています。

石川 都市全体に対する大きな方針と、利用者の個別のニーズの間のバランスは、時間をかけて調整していく必要があると思います。誰もが位置情報付きの端末を持っている時代に、これまで見えなかったことが可視化され計測化できるようになると、公共施設の滞在時間や人気度をもとにこれまで以上に効率化できてしまうでしょう。

ところがそれを推し進めると、想定外の事態が起きた時にアウトになると思うのです。最適化するということは設計の段階で考えられていなかった状況に対応できなくなることにもなりかねない。それを私たちは今この災害多発時代に学びつつあると思います。

だから、公園というのは、一度つくったものを30年は動かせないというところにも価値があるのだと思うのですね。ガシガシと変えていく部分は民間に任せて、ものすごく動きの鈍い公園のような場所が一定数あることも都市には重要だと思うのです。

深澤 公共空間の自由度が振れすぎないためのアンカーのような位置づけですね。

石川 そうです。公園というのは何よりもまず「制度」だと思うのです。

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