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【特集:公園から都市をみる】
公園から見た水都大阪

2021/06/07

  • 武田 重昭(たけだ しげあき)

    大阪府立大学大学院生命環境科学研究科准教授

コロナ禍での新しいパブリックライフ

2020年春の中之島公園は、これまでとはまったく違う風景だった。

春はいつも変化を連れてやってくる。気温や雨量の変化に富む日本は、四季による自然の移ろいが際立って美しく、そのリズムにあわせて歴史的・文化的な営みが重ねられてきた。とくに春は新しい暮らしへの期待が感じられる季節である。しかし、この年の春がもたらした変化は、日々の暮らしを不穏の渦中に陥れるものだった。花が美しく咲き誇るほど、私たちの心のダメージは大きくなった。自粛生活が強いられ、特に都市では人々の交流というその本質的な魅力が損なわれた。しかし一方では、新しい魅力の芽生えを感じることもできた。

公園の風景は、それを支える自然基盤とその上に人が築いた設(しつら)え、さらにはそれらを利用する人々の姿そのものが重要な構成要素となって、その総体が目に見えている。公園では、多人数での集合を避けながらも散歩や運動をはじめ、食事を楽しんだり、パソコンに向かったり、青空のもとで麻雀を楽しむ人たちまでもが都市の新しい風景として現れた。これらは抑圧された生活の中で欲求を満たそうとする行動だが、世情のことを少し脇に置いて、目の前の風景だけを切り取ってみると、公園という都市の舞台がずいぶんとうまく使いこなされているように見ることもできる。パンデミックの中でも、思い思いに過ごす人たちが互いの距離を保ちつつ離散的に集合する風景に、新しい公園の価値を見出すことができる。離散は疎外ではなく、むしろ離れたものの間に意味を生みだす。身体的な関わりを持つことはなくとも、同じ時間と空間を共有することによって他者と交流するという、新しいパブリックライフの風景が生まれている。

「協働」から「共同」へ

昨今の公園では、賑わいを生み出すことばかりが目指され、官民による協働が重視されてきた。「協働」とは、「同じ目的のために、力をあわせて働くこと」であり、明確な能力や技術をもった個が、それを使って同じ目的のために一緒に取り組むことを指す。これに対して「共同」とは、「ふたり以上の人がいっしょに何かをすることや使うこと」であり、特に共通の目的があるわけではなく、必ずしも互いの能力や技術を求め合っているわけではない。共同浴場とは、皆が一緒に使う風呂であって、そこでは力をあわせて共通のミッションを達成することが求められているわけではない。公園も本来このような共同の場所なのではないだろうか。

江戸時代までさかのぼらなくとも、つい近年まで、日本の社会には共同体が成立していた。都市の発展は一方でこの共同体を破壊し、皆が一緒に使う「共同空間」を官民が同じ目的をもって働くための「協働空間」へと変えてきた。しかしコロナ禍は、個の生活が屋外ににじみ出ざるをえない状況を生み、協働以前に共同の空間が不可欠であることを明確にした。公園は現代に残された最後の共同空間である。共同のための暗黙の配慮や不文律に従う行動にこそ、その社会の持つ文化的な度量が現れる。コロナ禍の中之島公園には、賑わいとはちがった、共同利用による人々の連帯が見えていた。

官民で獲得した水都大阪という美称

古今東西を問わず水辺は都市の基幹をなす空間だ。なかでも水都と呼ばれる都市の水辺は歴史的に特別な意味を持つ。近世大坂は人や物の集まる天下の台所として栄え、縦横にめぐらされた堀川が交通や交易だけでなく人々の交流の場となり、水辺の出来事が都市の営みそのものだった。

大阪の特徴は、それを「民」が支えていたことにある。防災や産業などの重要な役割を担う水辺は、多くの都市では「官」が司ってきた。しかし近世大坂で水辺を担ったのは町衆と呼ばれる「民」であった。当時の大坂には約200もの橋が架かっていたが、そのうち幕府が架けた公儀橋はわずかに12と言われており、その他はすべて町衆が架けた町橋であったとされる。現在も中之島の水辺に立つ図書館や中央公会堂が財界からの寄附によって建てられたことは、近代になってもこの気概が継承されたことを物語っている。

中之島は江戸時代後期に東端が埋め立てられ、民衆の遊観地として親しまれていた。周辺には蔵屋敷が並び、近世から大坂の中心地の1つであった。この地が公園に指定されたのは明治24年。さらに大正4年には拡張計画が可決され、現在の中之島公園の形状に土地が造成された。大正10年には新市庁舎も完成し、中之島は「官」によって大阪のシビックセンターとしての役割を担うようになる。中之島公園には噴水や花壇、音楽堂やテニスコートなどが設けられ、水面には多くのボートが浮かび、モダンな雰囲気が漂う場所であった。このような大阪は「東洋のベニス」と称され、憧憬の水都となった。

大大阪の公園計画

当時の大阪は周辺町村を編入して市域を拡大していき、大正14年には面積・人口ともに東京を抜いて日本一の都市となり、大大阪と呼ばれた。紡績や鉄鋼などが盛んになると「東洋のベニス」は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになり、水の都は煙の都ともなった。経済は大いに繁栄したが、一方で大量の地下水を汲み上げたことによる地盤沈下などの問題も露呈した。

こうして大阪は清濁併呑により発展をとげてきた。昭和6年には市民からの寄附によって大阪城が再建され、昭和12年には新しい目抜き通りとしての御堂筋が完成する。近代の大阪では官民がそれぞれの役割を担いながら、現在まで受け継がれる「都市格」を築いた。昭和14年に刊行された『公園緑地』の大阪特集号には、当時の理想の公園計画が著されている。建築家の片岡安は「少なくとも八万坪以上の有効面積を有する中央公園を中之島を中心として之を完備し、所謂ウォターフロント・パークとして大阪市民の誇り得る水都の公園たらしめ、同時に此の中に市民が集合して、全大阪が歓呼の声を或は厳粛なる感謝の気持ちを以つて市民の祭事を行う大広場を築造し、国民精神総動員や愛都心宣揚の中心地たらしめたいと希望するのである」と述べている。

8万坪(約26ヘクタール)は今の中之島公園の約2.5倍の面積である。これが実現していれば、大阪市民の誇り得る、愛都心を育む公園として、「水都の公園」はより魅力的なものになっていたに違いない。

しかし、このような大大阪時代の理想の緑地計画は実現されることはなかった。片岡が「国民精神総動員」を掲げることからも窺えるように、その後の公園は戦争へ向けて防空のための場へとその存在意義を大きく変えていった。

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