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【特集:公園から都市をみる】
「ミヤシタパーク」と「公園まちづくり」──近年における都市公園の「語りにくさ」について

2021/06/07

  • 近森 高明(ちかもり たかあき)

    慶應義塾大学文学部教授

近年の公園は社会学的に語りにくい──本稿では、このような問題を考えてみたい。

公園について社会学的に語る場合、「公共性」という規範的な概念がつきまとう。社会学的な視座からは、公園とは公共性を体現する都市空間の代表であり、逆にいえば、公園が具現化する公共性のあり方をもって、それが埋め込まれている都市空間全体の公共性の物差しとするところがある。その場合、ありうべき理想的な公共空間の姿や条件がまず思い描かれ、その理念的モデルとの落差で、現実の公園が採点され、批判されることになる。

齋藤純一によれば公共性の意味は3つあり、国家に関係する「公的なもの(official)」、すべての人びとに関係する「共通のもの(common)」、誰にたいしても「開かれている(open)」の3つである*1。このうち公園の体現する公共性は第三のそれであり、公園とは、誰でもアクセス可能な施設であることを第一要件とする。ゆえに規範的な公共性の観点から公園が批判される場合、「開かれてあるべきものが閉ざされている」ことが指弾される。じじつ齋藤もまたこの文脈での事例に公園をあげ、このように述べる。「一例を挙げれば、水道と木陰とベンチと公衆トイレがある空間は、人間にとっていわば最後のセイフティ・ネットを意味するが、それをしも奪い、公園を閉ざされた空間にしようとする動きがあるのは周知のとおりである*2」。

「ミヤシタパーク」をめぐって

渋谷区の宮下公園をめぐる動きは、そうした批判が向けられる典型的な事例であるだろう。2020年7月にオープンした「ミヤシタパーク」は、渋谷区が大手デベロッパーと連携して再整備をすすめたショッピングモール・ホテル・公園・駐車場を一体化した複合施設だが、その再開発プロセスで宮下公園で生活をしていた野宿者たちが排除されることとなった。渋谷区による宮下公園の野宿者排除にはさらにその前史があり、2009年、命名権を企業に売却したうえで公園を改修する「宮下ナイキパーク」化計画にさいして、野宿者たちのテントなどが強制撤去され、その対応をめぐって訴訟にまでいたっていた*3

野宿者を排除する一方で、カフェや高級ブランドのテナントが入るおしゃれな商業施設を整備する動きは、たしかに露骨でグロテスクな面をもつ。多様なアクティヴィティを包摂するはずの「公園=パーク」という名のもとで、一定のお金をもち、一定の服装をととのえ、一定の行動規範にしたがう従順な消費者だけにアクセス権を付与する、小綺麗な商業空間が仕立てられるのは、誰にでも「開かれている」公共性という規範に照らせば皮肉であり、批判されるべきだろう。社会学の常套的概念を用いれば、それは都市空間を高級化し排他的にする「ジェントリフィケーション」であり、公共空間を私有化する「プライバタイゼーション」であり、それを仕掛ける渋谷区の政策は「ネオリベラリズム」的であるだろう。

だがこうした批判が正当であり、実践的には排除の不当性を訴えつづけるべきであるとしても、これらの批判の言葉は現在、奇妙にターゲットには届かず、元来の批判的潜在力を失いつつあるようにみえる。「近年の公園は社会学的に語りにくい」というのは、この批判の「届かなさ」にかかわっている。

「公園まちづくり」をめぐって

同じ問題を別の方面から考えてみよう。かつては都市計画対まちづくりという対抗図式が濃厚であった。一方に行政側がトップダウンで押しつける画一的で硬直的なプロジェクトがあり、他方、それに対抗するものとして、住民側がボトムアップで立ちあげる、地域の多様なニーズにもとづく柔軟なまちづくりの運動がある、という構図である。都市計画が、行政によるハード面のコントロール(規制・誘導)を旨とする都市環境整備の制度だとすれば、まちづくりは、住民やNPOなど多元的な主体によるハード&ソフト両面のマネジメントを旨とする居住環境改善の活動である。だが現在、都市計画とまちづくりは対抗するものではなく、都市計画自体が、まちづくりの要素をみずからに含み込んできている*4

コントロールを旨とする都市計画は、人口増大・経済成長・都市拡張の局面における、都市空間の膨張を制御するための制度であった。だが人口減少・経済停滞・都市縮退の局面に入ると、都市計画は多様な社会課題に地域レベルで対応する必要が生じ、マネジメントを旨とするまちづくりを自身のプログラムに取り込むことになった。

そしてその、まちづくりによる成果の典型例が、地域ごとの個性的な公園づくりにほかならない。まちづくりによる公園計画では、住民が参加するワークショップが何度も開催され、じっくりデザインが練りあげられる。専門知をもつファシリテーターが入り、ゲームやディスカッションが重ねられる。全体の配置や個々のファニチャーに至るまで、ありがちな画一的デザインではなく、土地やコミュニティの履歴や資源を活かした、個性的なデザインが工夫される。さらに実現した公園の維持管理にあたっても、行政にまかせるのではなく、地域の住民がみずから自主管理をするグループを立ちあげてゆく。

こうして公園づくりを契機に、住民たちのコミュニケーションが活性化し、地域の課題を自分たちで解決する成功体験は、さらなる多様な課題解決への協働的取り組みに結びつくだろう。つまり公園づくりを媒介に、まちづくりの活性化が期待できる。佐藤滋の定義によれば「まちづくりとは、地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と魅力を高め、「生活の質の向上」を実現するための一連の持続的な活動である*5」。この定義は、まさに「公園まちづくり」にぴったり適合するだろう。

このような公園まちづくりもまた、規範的な公共性に照らした社会学的な視座からは批判しにくい。これらは一見して「いいこと」だからである。そこをあえて批判しようとすれば、ありうるのは以下の3つの方向性くらいだろうか。第1に、積極的に参加する住民は限定され、そこから排除される人たちもいるという「参加からの排除」を指摘する方向性。第2に、住民主体でのデザイン策定や自主管理は、人的・財政的リソースを欠いた自治体による業務の丸投げであり、「ボランタリズムの動員」(ここには「ネオリベラリズム」とボランティア活動の共振関係も指摘できる*6)であると指摘する方向性。そして第3に、マネジメントを旨とするまちづくりと見せかけながら、デザインや維持管理の評価基準は行政がコントロールする「マネジメントというコントロール」が密かに働いている、と指摘する方向性。しかしこれらのいずれも、さきのミヤシタパークにたいする社会学的な批判と同様、どこか外在的であり、的の中心を射貫く力強さに欠けるように思われる。

「語りにくさ」のその先を考えるために

現在、都市空間には「ミヤシタパーク」的なものと「公園まちづくり」的なものが増殖しつつあり、その両者のあいだで社会学的な視座は宙づりになり、有効な批判の言葉を失っている。ミヤシタパークにたいする「ジェントリフィケーション」「プライバタイゼーション」「ネオリベラリズム」という批判は空を切り、公園まちづくりにたいする「参加からの排除」「ボランタリズムの動員」「マネジメントというコントロール」という批判は的の中心を逸れてゆく。いずれも間違ってはいないのだが、ラディカルな批判として機能せず、いわばそうした〈批判─応答〉の回路が成立するレイヤーとは別のレイヤーで事態は着々とすすみ、都市空間は変容してゆく。そしてそのように増殖する空間のリアリティとそこでの公共性のあり方に、社会学の言葉は追いついていない。

公園の公共性の現在を語ることが、都市空間全体の公共性の現在を語ることの試金石であるとすれば、社会学的な視座の有効性と可能性は、「ミヤシタパーク」と「公園まちづくり」をいかに意義あるしかたで(批判的に)語りうるかにかかっている。現在の都市空間に増殖する公園(的空間)の「語りにくさ」の由来とその突破口について、今後とも考えを詰めていきたい。

〈注〉

*1 齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年。

*2 齋藤純一、前掲書、ⅸ頁。

*3 宮下公園における野宿者排除のプロセスについては下記を参照。木村正人「〈共(コモンズ)〉の私有化と抵抗──渋谷におけるジェントリフィケーション過程と野宿者運動」『空間・社会・地理思想』22号、2019年、139-156頁。

*4 都市計画とまちづくりの関係については下記を参照。饗庭伸・鈴木伸治編著『初めて学ぶ都市計画 第二版』市ヶ谷出版社、2018年。また「都市計画のまちづくり化」の動きについては、下記で発表予定である。近森高明「「都市」から「まち」へ──2000年代以降の都市記述の変容について」『年報社会学論集』第34号、2021年(掲載予定)。

*5 佐藤滋「まちづくりとは何か」日本建築学会編『まちづくりの方法』丸善、2004年、2-11頁。

*6 ボランティア活動と「ネオリベラリズム」の共振関係については下記を参照。仁平典宏「ボランティア活動とネオリベラリズムの共振問題を再考する」『社会学評論』56巻2号、2005年。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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