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【特集:公園から都市をみる】
日比谷公園から考えるほんとうのまちづくり

2021/06/07

  • 進士 五十八 (しんじ いそや)

    福井県立大学長、東京農業大学名誉教授・元学長、造園家

近代日本と東京の未来が見える「ザ・パーク日比谷」

日比谷公園は明治36(1903)年の開園以後、まるでジャーナリストや都市社会学者を喜ばせようとするかのように様々な話題を提供してきた。以下は拙著『日比谷公園──100年の矜持に学ぶ』(鹿島出版会、2011)や『日比谷公園──歴史&魅力探見ガイド』(公益財団法人東京都公園協会、2013)でも取り上げた、新聞や雑誌を賑わせた出来事の摘録に、私なりの歴史的な意義([ ]内)を付記したものである。

・文明開化のシンボル──日本初の西洋式公園の誕生[日本近代の西欧文明の受容の形態と知恵]
・慶應義塾・日本体育会より遊動円木・鉄棒・回転塔・米国式梁木・水平階梯など青年運動器・少年用ブランコの寄贈[欧米型スポーツ・レクリエーションの導入]
・日露開戦と連合艦隊大勝利大祝捷会、日比谷焼打事件[世界と日本の緊張関係・国家戦略プロパガンダ]
・伊藤博文国葬、大隈重信国民葬などの会場となる[国家広場的な役割も公園内の運動場空間が果たす]
・関東大震災罹災者用バラック144棟を建て6000余名収容、400の露店街が出現[避難緑地防災機能の発現]
・震災孤児など公園での児童指導に児童遊園3000坪整備しネイチャー・スタディ(自然学習)を開始[児童の健全育成と日本初の自然あそび・環境学習の始まり]
・飛行船ツェッペリン号と日独親善音楽会、日伊親善へムッソリーニ首相寄贈のローマ牡狼像を第一花壇ロックガーデンに設置[日独伊三国同盟、国際政治の舞台]
・日本敗戦でGHQに接収される。松本楼など、雲形池の水を抜き米兵らのダンス場に[戦後政治]
・夜のアベック公園を報じる記事多数[戦後の公園風俗]
・銀座千疋屋らのスポンサーシップで本格的花壇展/小野田セメント(株)提供の白色セメントを活用した野外彫刻展/第一回全日本モーターショーの開催[民間活用とイベント会場として開放]
・日比谷公会堂にて浅沼稲次郎刺殺/沖縄返還協定反対の過激派学生による放火で松本楼焼失(ホームレスが通報)/年越し派遣村など[政治経済情勢を反映した事件]
・芥川賞受賞作の吉田修一著『パーク・ライフ』の舞台となる/東京都公園協会「緑と水の市民カレッジ」で「日比谷公園学」開講/緑のボランティア推進支援[生涯学習時代の市民生活スタイルを公園から提案]
・公園100年記念事業で公園と周辺まちづくり活性化に多彩なイベント/日比谷通り沿道地区再開発と併走して「日比谷公園再生計画R2」が2033年の開園130周年を目標に事業発進[近未来東京都心の国際ビジネスセンターへ、パークPFIやエリアマネジメントの視点が登場]

およそ「これが公園での出来事か」と訝るほど、政治、経済、社会、文化、生活万般にわたる多彩な120年であったことがよくわかる。これこそ、公園から都市が見えるということ。不変で安定した「歴史的公園」には、都市の記憶が蓄積されていくものである。もちろんそれは日比谷公園の、都心立地のせいだけではない。

公園の議定に始まり、いくつもの設計案が出され、本多静六の実施案に落ち着くまでに10年かかったが、その分、「和魂洋才」の知恵をもつ明治人らは西洋文明を上手に受容しようとした。日比谷公園成立期に、公園マンら当事者は使命感に燃え、彼らの矜持や経営努力が、近代日本に「ザ・パーク日比谷」を誕生させたのは間違いない。

大都市の公園と杜の「時間的座標軸」

東京都でこれぞ公園=ザ・パークと呼べる唯一のものが「日比谷公園」、そして唯一の都市林が「明治神宮の杜」だろう。ともに林学博士・本多静六の仕事である。

本多は慶応2(1866)年の生まれ。福澤諭吉は天保5(1835)年生まれだから本多はほぼ30年遅れて誕生したことになる。後に明治神宮で本多と縁ができる大隈重信(天保9年[1838]生まれ)の3人とも西洋文明を受容する時代を生きた。特集テーマは公園と都市だが、福澤、大隈、本多ら明治期のオピニオンリーダーが使命感に燃え大局と将来を見通しながら、足元の細部もきっちり固めてゆく生き方に私は強く魅かれる。

さて、日比谷の開園は明治36年。明治神宮内苑の成立は大正9(1920)年で、2020年に鎮座100年を迎えた。私は日本の造園家として、日比谷公園も神宮の杜も、世界に誇れるすぐれた日本型ランドスケープ遺産だと考え、これまでも著作を通してその思いを伝えてきた。

私はおよそ都市というものは、①人工面と自然面、②ビルドアップ空間とオープンスペース、③変わる場所と変わらぬ場所などの対比のなかで、相対的なバランスと共生を計画すべきであると唱えてきた。鉄、アルミ、ガラス、コンクリートで造った高層ビルやアスファルト道路で覆われた巨大人工都市の持続可能性を企図するなら、水や生命が循環できる自然面を十分に都市のふところに確保するかたちで再開発計画を構想すべきだろう。

昨年7月11日、BSテレビ東京が「新・美の巨人たち」で〈都会のオアシス 迷宮の森〉と銘打ち、本多静六と日比谷公園を取り上げた。公園というととしか理解しないメディア関係者が、美の巨人・・・・として本多静六を指名してくれたので、私も気分よく番組に出演した。番組のシナリオでも拙著で強調してきた、日比谷公園が世界水準の「ザ・パーク」と呼びうる、次の5つのポイントをきちんと紹介してくれた。

①西洋式直輸入でなく、日本人に馴染む「洋風公園」であった点。
②市民が憧れた洋花・洋食・洋楽の「3つの洋」を提供することを公園づくりのコンセプトにした点。
③公園の敷地内をS字カーブの大園路でゾーニングすることで、目的と利用に応じた多様な空間構成を可能にし、老若男女の嗜好に応えられる幕の内弁当風公園・・・・・・・・として「空間多様性」と「利用多様性」を実現した点。
④都心立地で何度も改造されようとしたが、東京都の公園当局は開園以来120年間、本多の公園設計のオーセンティシティの保存姿勢を堅持し、「歴史的公園」らしい風格の醸成に努めている点。
⑤たとえ高地価の都心公園であっても、市民の「時間的座標軸」でありつづける公園である点。

いずれも未来都市・東京を考えるためのキーポイントである。世界の都市間競争が激しさを増し、経済も都市も絶えず変化する。だからこそ、1人1人の市民には家族とともに安心して良い思い出を紡げる場所が必要だ。その著書で「都市はふるさとか」と問いかけたフェリツィタス・レンツ=ローマイス女史ではないが、都市も1人1人の市民にとって“ふるさと”でなければならない。

日本型公園の代表的存在たる所以

それを考えるために東京都公園緑地部が日比谷公園100年記念事業で始めた「思い出ベンチ プロジェクト」を紹介したい。都民が10万円を寄付すると“思い出ベンチの背に寄付者の日比谷での思い出作文のプレートが付いたベンチ1基が配置される。数百人の思い出すべてを読んでみたが、日比谷公園で過ごしたひとときがいかに豊かなものであったか、切々と伝わってくる。激変する巨大人工都市のど真中にある日比谷公園、皇居、そして赤坂御所、新宿御苑、神宮内苑・外苑と連続する緑のオープンスペースの安定感が東京にとりどんなに大きな財産か。オープンスペースは都市と市民の「時間的・景観的座標軸」に不可欠なインフラストラクチュアなのである。

私は日比谷公園を、The Park HIBIYAと呼んできた。これぞ「日本型公園」の代表的存在だという意味を込めている。私の言う「日本型」とは、西洋的風土で成立した西洋式公園をそのままコピーするのではなく、日本人の感性にふさわしい、日本の自然風土や風物と連続して違和感のない環境空間を意味する。

公園はたくさんあるが、何といっても日比谷は楽しいし、飽きない。場所ごとに異なった雰囲気があり、学生同士の散歩にも、デートにも、家族連れにも、官庁や民間企業のサラリーマンにも、時には観光で訪れた人たちにも、政治集会に参加する人たちにも、それぞれの居場所がある。早朝のジョギングでも、夜の会食やコンサートでも、日常でも非日常でも、日比谷公園は春夏秋冬、朝昼晩、それぞれのスタイルで自分らしく過ごし楽しめる総合公園だと私は確信している。

これは、学生時代に卒業論文を書くために、2年間日参して公園を隅々まで調べつくし、その後も東京農大造園学科教授として長年日比谷ウォッチングを続けての実感である。学生には1000分の1の平面図を配って、マン・ウォッチングの課題を出してきた。ランドスケープデザイナーの卵たちに、フィジカルセッティング(空間構成)とヒューマンビヘイヴィア(利用者行動)の関係性がユーザーのための公園設計の基本と伝えたかったからである。

私の研究室でも動線調査や利用者タイプ別の空間選好調査、都民の公園利用意識調査、24時間利用者調査などを行うとともに、カップルやホームレスの占有場所特性調査やヒヤリング調査を実施し、「利用者考現学」を追究してきた。こうした、長年にわたるパーク&マン・ウォッチングの経験から、シャープでスマートなわかりやすい現代的ランドスケープ・デザインとは異なり、日比谷公園こそ、まさに迷宮の森と称されるような肉感的で人間的な、ホンモノの公園というべきではないかと私は確信するようになったのである。

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