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【特集:公園から都市をみる】
日比谷公園から考えるほんとうのまちづくり

2021/06/07

日比谷公園の設計者・本多静六

ところで、『本多静六自伝 体験八十五年』(実業之日本社、2006)には「日比谷公園の設計」と題された章がある。それによれば本多は、東京市顧問だった辰野金吾博士から日比谷公園設計図案の感想を求められ、自身の意見を述べたところ、その場で地形図とともに設計を押し付けられることとなった。後日、持参した本多案を見た辰野は時の松田秀雄市長に推薦し、本多は設計を委嘱されてしまったという顚末である。本多は「私もほんとうのところは公園の設計は初めて、僅かに西洋の公園を見てきて、公園の本を数冊持っているだけだから心細かった。だが日本には専門家がいないので私は異常な異常な希望と決心・・・・・・・・とをもってやり始めた」(傍点筆者)と述懐している。

本多は武蔵国埼玉郡河原井村(現・埼玉県久喜市)の農家・折原家の生まれで、第6子だったことから静六と名づけられた。9歳で父と死別し、苦学して東京山林学校を銀時計で卒業。元彰義隊長・本多敏三郎の婿養子となり、本多静六となった。結婚して間もなく留学し、帰国後に林学博士となり、34歳で帝大農科大学教授になった。人生100年時代の現代とは違い、フロンティア精神旺盛な明治人の姿が目に浮かぶ。

苦労人だった本多静六の強みは、農村社会で育まれた他者を思いやる協調的人間力と、自然共生の技と知恵が身に付いていたことが1つ。もう1つは東京山林学校とドイツ留学で造林学と森林美学を学び、国家経済学(林政学)のドクトル(学位)を取得。そこで獲得した大局的な視野を持ち、長期的な展望をもっていたことであろう。農学分野ではめずらしく、昔から「十年樹木・百年樹林」というように、林学者は長期的視点を持つようである。

ふつう苦労もなく学校を出ただけの者であれば、西洋式公園を設計してほしいという注文には西洋式のコピーで済ませただろう。だが本多は違った。既存の設計案を尊重しながら、外見は洋才の西洋式、実質は庶民の求める和魂への気配りを込め、長期的に森に育つことまでも視野に入れて図面化した。本多の設計案は敷地条件を踏まえながら、市民生活の将来像をも見据えたものとなっていた。

本多静六の「和魂洋才」公園

私は「本多静六の設計術」についてこれまで細かに考察してきた。本多が日比谷公園の設計を委嘱された時、すでに複数の設計案が存在していた。日本園芸会の甲・乙案、長岡安平案、東京市吏員案、辰野案等である。本多はこれらの門の位置や動線など、各案に共通する必要条件を踏まえ、設計に反映している。主園路はドイツの図面集のS字パターンを写して全園を五つにゾーニングして骨格を決めた。定規で引いた幾何学のサインカーブは、当時の造園には皆無で、一目で洋風を感じさせた。さらにドイツでの公園生活からの着想か、私が3つの洋と呼ぶ洋花・洋食・洋楽を花壇・レストランカフェ・奏楽堂の形で具体的に配置した。他方、西洋庭園施設のパーゴラは和の藤棚風、西洋図面の雲形池には鶴が象(かたど)られる噴水を造作して和風を醸す。築山や梅林、井筒といった純日本的要素を西洋館の松本楼近くに置く。さらに廃仏毀釈の世相下、有楽門から日比谷通りに沿ったゾーンでは日比谷見附の石垣を保存し、濠にあたる心字池の護岸には江戸庭芸の特色である黒朴石を用いる。植栽技術の面では、地下水位が高く樹木の生長が難しい環境条件から、大学演習林の安価な苗木を植栽した。そこには予算上の配慮(これも本多の気配り)もあったろうが、ゆっくりと環境に順応する方が百年樹林に適すという造林学者の見識だろう。

明快なコンセプトを駆使して、オリジナルの造形を重視するランドスケープ・デザイン論を学校で教わった現代のデザイナーには、多彩な要素をコラージュしたような本多スタイルはおよそ理解できないかもしれない。

しかし本音で言えば、これこそ西洋公園の借り物でない、自然的文化風土にふさわしく、利用者の共感も得られる「日本型公園」だと思う。ただ正直、本多の何でもありの公園デザイン論としていかに合理的に説明できるか、もどかしさもあった。

風土自治──中村良夫のまちづくり原論

ところが、である。私が敬愛する風景学者、中村良夫先生が先日上梓された大著『風土自治──内発的まちづくりとは何か』(藤原書店、2021)を読了して一気に氷解した。

近代日本人の知恵だった「和魂洋才」は、中国の「中体西用」、韓国の「東道西器」とほぼ同義である。おそらく当時の東洋では西洋文明、西洋的価値観に心底納得し、共感する知識人はいなかっただろう。だから、科学技術や経済など実益では西洋を受容するが、は譲らなかったのだ。その理由を中村は見事に整理している。曰く、近代日本が受容を余儀なくされた西洋の公共思想は「西欧文明の原点とされる中世の自治都市の理念が、洗練された主権国家へ育つ過程で風土性から離陸し、普遍的理想をめざし指導するエリート集団は土俗的な臭気を賤しみ反風土的で高貴な、『普遍自治=市民自治』に到ったもの」である、と。であれば、私たちにぴったりこなかったのは当然であったろう。

具体的には、中村は西洋と日本を対比し、西洋人は俗を離れた普遍主義、市民自治を公共とし、日本人は基層にある土俗文化を手放さず、風土を継ぎ育て、これを文化面で洗練してゆく道(それを「風土自治」と呼ぶ)、それが民衆の半ば無意識の公共思想であったと結論づける。別の言い方をすると、西洋の「エリートの普遍性第一の市民自治」と、日本の「風土と共に歩んだ農村の結(ゆい)やもやい、社寺の祭祀、講や連の文化サロン、盛り場のアソビ等で高められた風土自治」(あるいは情緒共同体、コミュニタス)との対比となる。

中村は『風土自治』を自身のまちづくり原論という。だから私は本多静六の公園デザイン手法も私の「日本型公園の理念」も、この「風土自治」で説明し、解釈したい。都市であれ、公園であれ、中村の「風土自治」に倣い、ここから読み取れる「日本文化としてのまちと公園づくり」を目指したいと考える。

どこかで現代の都市や公園に不適応を直観していた感度の良い市民の皆さまには、この『風土自治』を一読し、日比谷公園を訪ねてみていただければ幸いである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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