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【特集:公園から都市をみる】
〈境界〉を超える芸術としての庭園──「池の水滴は、そのままひとつの庭である」

2021/06/07

パリ《ラ・ヴィレット公園》
  • 前田 富士男(まえだ ふじお)

    慶應義塾大学名誉教授、中部大学客員教授

園内の森の小径や池の木橋をめぐって散歩し、緑陰のベンチに腰をおろす。すると向こうから一頭のカンガルーがのんびり、歩いてくる。間もなく、横の道からペンギンのグループもあらわれ、賑やかに目前を通り過ぎる。むろん驚くまでもない──かれらも私と同様、散歩を楽しむ存在なのだ。

スイス・バーゼルの「動物園」を訪れた初夏の鮮やかな光景は、いまも記憶に新しい。1976年のことだ。動物をケージに閉じ込めない開放的な取り組みといった安易な問題ではない。市民のレジャー施設でもない。ベンチで手元の案内をひらくと、バーゼル動物園(Zoo Basel)ではなくバーゼル動物学的庭園(Zoologischer Garten Basel)との記載に眼がとまった。ここはあくまで「庭園」なのである。

世界の現象を動物界・植物界・鉱物界に区分し、それぞれを科学的に観察・分析し、同時に、それらを超える人間界の「知」の営みで世界全体を理解する──まだドイツの大学で留学生活を始めたばかりで、しかも美術史・芸術学が専門ゆえ、ヨーロッパの学術の基盤をなす自然科学と哲学の伝統に圧倒される思いにとらわれていた。他方で興趣・娯楽に傾きがちな日本の動物園や庭園も念頭にあった。しかしここでは、カンガルーやペンギンは、たんにわれわれの観察の対象という位置に安住などしない。散歩するかれらもわれわれ人間を観察する、と考えざるをえない。

散歩とは、特権的な観察者と、被観察対象との「境界」を打破する身体的行為であろう。福澤諭吉が散歩を重視したのも、そんな洞察ゆえではないか。

動物園のベンチで境界を考える

芸術の基本は、イメージの創出にある。手元に実在するモノをかりて、境界をつくり、そこに不在の精神的価値を生みだす──たとえば机上の白紙に一本の横線をひく、あるいは円形を描いてみればよい。頼りない鉛筆描線だとしても、上と下、天と地、あるいは、まとまりと周辺、内と外、存在と無、まさに秩序とカオスが机上に出現する。イメージはまず境界の設定から生まれる。しかし同時に、その旧来の表現を超えなくてはイメージたりえない。どのように色や明暗、形に、また音や身体の動きに作者なりの新しい境界をつくり、それをずらし、転倒させ、飛躍させるかが、セザンヌやロダン、マーラー、イザドラ・ダンカンの創発的な仕事を成立させる。

近現代の芸術や文化は、伝統の境界をいかに継承し、また克服するのか、戦いの道を歩んだ。

バーゼルからR・シュタイナーの《ゲーテアヌム》(1928)やF・ゲーリー《ヴィトラ・デザイン美術館》(1989)は近いが、いまはフランス・フランシュ= コンテ地方ロンシャンの丘上に立つ《聖母マリア巡礼聖堂》(1955)に向かおう。建築家ル・コルビュジエは、カトリック巡礼聖堂としての全体の造形を主眼に、東側外部壁面に祭壇を設け、戸外でのミサを可能にする創意を具体化した。この壁面と聖堂全体の量感の動勢が丘を登る「巡礼」を祝福する。

だが、振り返ってみれば、古今東西を問わず、宗教建築は、絶対的な「境界」をつきつける空間だ。なぜなら、日常とは異次元の超越的世界が、そこに実在するからである。そもそも、その「境界」の向こうを信仰する信徒以外は、建築空間に入ることも許されない。しかし20世紀になると合理主義はこの「境界」を黙過する。今日、信徒用ベンチにスマホで世界文化財検索アプリ「ユーロピアーナ」を閲覧する「美の巡礼」が腰をおろしても、誰も咎めない。社会的空間でも、このように「境界」は変動する。

バーゼルは、ヨーロッパ最高の人文主義者たちを輩出した古都で、ルネサンス時代にはエラスムスも当地に生活した。動物園はスイス最古の1874年に開園。大学は動物園に近い。歴史家ブルクハルトや哲学者ニーチェ、心理学者ユングが授業の合間に、園内を散歩しなかったはずがない。

かれらは造園家クルト・ブレッガーが緑豊かな景観庭園に改築した仕事(1954-1989)を知る由もないが、ベンチに腰をおろし、人間界の知の根源を動物・植物界との「境界」に見据えていたことは、疑いない。

こうしたベンチは、また、昔から植物園にも備えられていた。

エクゾティックからリ・クリエーションへ

イタリア・パドヴァは、近世・近代絵画の幕開けとなるジョットの《スクロヴェーニ礼拝堂》フレスコ壁画(1305)で知られるが、庭園史研究でも同市の《植物園(Orto Botanico)》を訪れない者はいない。パドヴァ大学附属として1545年に開設され、世界で最初かつ最古の植物学的庭園として以後、ヨーロッパすべての諸大学・研究機関の範となった。パドヴァはヴェネツィアに隣接する街だ。アドリア海のこの貿易港は、エクゾティックな異世界、「他国・他者」へのナビ(航海法)に習熟していた。

パドヴァの植物園は、その成立時から自国にない薬草類の収集・実用と、体系的植物学の確立を目指し、また温室や栽培園も不可欠ゆえ、市民の認知・受容もかねて整形花壇ほかの展示・公開を実行した。

ここでわれわれは、散歩がてらのベンチで、この植物園の成立に、「分極性」機能に則したシステムを確かめてよい。すなわち、エクゾティック=異国趣味の関心は、自国/他国、既知/未知、技術知/理論知、育成/観賞という分極的な機能からなるシステムを作りだした。異国趣味はさらに言い換えれば、自己/他者、主体/客体、制作/受容、実在/不在の「境界」を戦いの場とするイメージの世界、すなわち芸術という「趣味判断」(カント)にも通じる。

この分極性のなかでも、とくに、植物園における「育成/観賞」の機能に注意したい。というのも、この機能は、庭園の根幹をなす働きとして大切にされ、現代の都市公園や新しい庭園問題の素地にもなるからだ。

庭園史に視野をひろげよう。古代ローマの生活では、住宅に中庭(ペリステュリウム)と、後方に奥庭(オルトゥス)をおく例が多い。中庭には花卉・観賞植物や水槽などを設え、神話に題材をとる壁画も描かれた。社交的な役割も果たす空間で、近世以降は政治的な空間にもなる(yard,Hof)。奥庭は野菜・果実ほか食用・薬用植物を栽培する空間である。ひとつの住宅空間のなかに、実用的「育成」と脱日常的「観賞」という相異なる機能を持つ2つの庭が存在する歴史は、きわめて意味深い。

この分極性はとりもなおさず、近世以降、宮殿附属庭園や都市空間に継承される。「娯楽庭園(Lustgarten)」と「実用庭園(Nutzgarten)」である。ひとつの宮殿で、南側に娯楽庭園を、北側に実用庭園をおくといった構成がとられる。前者は花壇・噴水などの観賞から音楽・演劇のショー、ダンス、パーティ、遊具的迷路など「受容・観賞」の場を意味し、それに対して後者は菜園、調理、薬草栽培・育成、博物学的実践など「制作・育成」を指す。

ドイツ語の娯楽庭園はかつてM・ルターも用いた語で、日常にない楽しさへの誘惑を含意し、聖書にもとづく「悦楽の園」や市民生活にときたま登場する「遊園地」を意味した。やがて18世紀からは、今日のニュアンスでの「リクリエーション庭園(Erholungsgarten)」が普及する。しかしそのニュアンスには注意を払いたい。というのも、実用が日常的な制作(creation)を指す一方、リ・クリエーションは脱日常的な場への意識の取り直し(erholen)、意識転換、つまり行為の「再・制作(re-creation)」を意味するからだ。それはたんに、気晴らしや余暇や娯楽ではない。

となると、リクリエーション庭園を挑発的に構築した現代パリのB・チュミ設計《ラ・ヴィレット公園》(1989)を誰もが想起しよう。実際、建築の規範たるウィトルウィウス的原理主義を否定し、広大な庭園敷地にグリッドほか特異な境界を設定し、ホールや博物館、店舗モールがせめぎあうパサージュ的ディコンストラクションは、園内を散歩する市民に意識転換を突きつける──庭とは何か、と。パリ市民に観賞・受容の境界を超える能動性を要請する公園だから、批判もあったが、この姿勢は正当だ。

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