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【特集:公園から都市をみる】
〈境界〉を超える芸術としての庭園──「池の水滴は、そのままひとつの庭である」

2021/06/07

総合芸術としての庭園

18世紀後半から登場する「公園(park)」とは、広い大地景観を持ち、市民のリクリエーションを受け入れる庭園である。宮殿庭園でも市民が利用可能な大きな公園は存在したから、さきほど述べた分極的な機能システムを作動させる点で、公園と庭園は異ならない。ただし、急激な膨脹に直面する現代都市の危機的状況にあって、市民生活の改善は急務だ。緑化をはじめ環境整備や都市再開発が要請されるなかで、公園計画はその核心をなす。パリは、その先導者を自負する。

けれども、《ラ・ヴィレット》を散歩し、庭園内の運河を中心とする境界の設定や、都市生活施設と植物界的庭園との接続に注意すると、ヨーロッパの伝統的な植物園や庭園における境界設定の伝統を想起する。たとえば、フランス《シャンティイ宮殿》をあげよう。コンデ公ルイ15世は建築家ル・ノートルに命じてイングランド式庭園にアモー(村里)をおく一画を造成した(1774)。アモー造成における運河や小川の設定には、宮廷と農村という対立的な生活世界の境界を融合させる意識転換を認めてよい。

実験的な《ラ・ヴィレット》が自然の大地景観(landscape)と特異な対話を試みている事態は、よくよく注視すべきだ。わが国でランドスケープは明治以降、志賀重昻の訳語「風景」が定着したために誤解を余儀なくされたが、中国・日本の伝統からも山水景や大地景観が語義に相応しい。現代、パリ市内での作庭家・植物学者ジル・クレマンのランドスケープ建築家としての活躍は、植物園の現代的意義を再び告知してやまない。

庭(garden, Garten, jardin)の語源はたしかに、インド・ヨーロッパ語族のgher、ghortos ラテン語hortus で、垣根や壁、森などによって周囲をかこまれた場所・形状を意味した。だが要諦は、静止した形状・構造にはない。そうではなく、区分し境界をつくり、さらにそれを変え、ずらし、たえず作りかえてゆく動的な機能的システム性が重要なのだ。

われわれが「分極性(polarity)」という特殊な概念を重視するのは、庭園のダイナミクス(動力学)をとらえるためである。庭園とは、制作者の意識・意志・技術のみならず、動植物・大地という素材自体の動性、そして庭園を文字通り身体的に体験し、リ・クリエイトする受容者がつくるような三様の運動浸透体とみなせよう。この力動性を曲がりなりにも捉えるためには相互に正反対を措定する対構造、たとえば停止/ 進行、生/ 死のような「分極性(polarity)」を見いだし、そこに生じる様態の変化を体験・記述してゆくしかない。

ゲーテは、動植物の形態学や色彩知覚の現象学から、こうした様態変化を「メタモルフォーゼ」と名付けた。芸術作品は、大理石塊が女神像に変容するように、メタモルフォーゼを具現する世界だが、庭園作品ほど、この変容を展開する芸術はほかにない。

やや複雑なこの議論から、判明な美術=造形芸術の既往の表現媒体論に戻ってもよい。

絵画・画像─彫刻─工芸・デザイン・映像─建築─環境デザイン─庭園

この表現媒体系列は、二次元的平面の絵画から三次元的立体空間へ、そして社会制度的空間と自然・運動空間へ、さらに動植物の生命的な時空間に接続する庭園へ、の系列である。空間・時間性に依拠する伝統的な系列化だが、庭園の「制作/体験」ほど芸術世界にダイナミズムをもたらす総合芸術は、ほかにない。

新しい境界の組み換えにむけて

動植物園で最も注目すべき機能は、育成/観賞、制作/受容であり、この機能は19世紀には市民社会に庭園として定着する。《パリ植物園》は17世紀にルイ13世王立薬草園から出発し、1739年に博物学者ビュフォンを代表者に迎えた。ロンドン《王立キュー植物園》は王立キュー・ガーデンズ(1759)をへて1840年に開設の運びとなる。近代的な生物学の開祖として動物哲学=進化論(1809)を論じたラマルクはパリ植物園で研究していたが、19世紀のロンドンでは、ロンドン動物学会が学会員用にリージェント公園内に飼育園(1828)を設け、すぐに学会名そのままに動物学的庭園(1847)が市民社会に門を開いた。

1862年にロンドンに滞在した福澤諭吉は同園と新設の爬虫類館、水族館(1853) を訪れたろう。福澤の訳語「動物園」には、市民が世界の生物とその研究に触れうる都市への驚きと共感が躍っている。

しかしながら、ヨーロッパの庭園は、さらに別な問いかけを躊躇しないように思われる。それは、物質的な生命とは何か、鉱物、岩石、大地、そして水の境界はどこにあるか、との声しずかな問いである。動物園・植物園以外に、「鉱物園」は、実際の鉱山や「驚異の部屋」のコレクションを除き、存在しない。けれども、庭園はつねに大地(ランドスケープ)・鉱物の庭でもある。では、「水とは何か」。

「水」とは、つねに姿を変える液状の「物質」であり、可変的な「鉱物」である──あるとき、そう気づいた。ゲーテ(1749-1832)は、ヴァイマル宮廷に赴任したとき、まず「イルム公園」に居を定めた。園内の小さな庭付きの四阿を下賜されたからだが、気に入ったらしい。この文学者はその後、植物学・動物学の研究で大きな成果をあげ、業績は現代でも専門家から注目されるほどだが、こうした自然研究の端緒は、鉱山学・鉱物学だった。イルム川は小さな流れだが、上流約50キロのイルメナウ鉱山を源流とする。渓谷状のイルム公園にも洞窟や坑道があるから、われわれもヴァイマルにながく滞在すると、ゲーテに教えられる──人間生活の根源は、大地と水の溶融した液状「物質」に、そのメタモルフォーゼにある、と。

この理解は、別な庭園でも確認できる。ドイツ・ハノーファーの《ヘレンハウゼン庭園》(1665)である。ここは、小規模な宮殿の前にパルテル(飾景花壇庭園)がおかれ、つぎに多数の池をおく園域、さらに南側に樹林帯が展開する。すべてフランス式の整形庭園の造形だが、われわれは慎重に庭園を歩かねばならない。一般にフランス式庭園というと、つい宮殿の2階テラスからのベルヴェデーレ(眺望)主義だ、と先入観を持ちがちで、権力者の絶対権力が遠景の樹林帯の果てまで及び、世界を制圧する遠近法の演出を念頭におく。だが、《ヘレンハウゼン宮殿》は、全くそうではない。中景の池の園域の、巧みな水道菅配置による多数の幾何学形の池面と噴水による水力学の表情がこの庭の主役だ。

この庭園は、哲学者・数学者ライプニッツ(1646-1716)の設計とされる。主著『単子論(モナドロジー)』の一節は、ふと「庭」と「水」に言及する。

物質のどの部分々々も、草木の茂る庭園とか、魚の泳ぐ池のようなもので、また、植物の枝葉ひとつ、動物の体液のひとしずくは、「そのまま、ひとつの庭であり、ひとつの池にほかならないのだ」。

この数学者は、デカルトと異なり、「我思う、ゆえに我あり」を拒否する。精神的主体が自己と客体世界とを区別し「境界」づける姿勢は括弧に付される。ライプニッツやゲーテは、水や大地、岩石を液状体の物質と捉え、さらに実在/不在の分極的機能を円環状の動きとみなす。部分は全体であり、全体は部分である、と。

そのような水の様態を日本で確かめうる庭を思いつくままに2つあげよう。

水と岩石・ベトンを接合するわが国の新旧の作品である。土岐川を前にする岐阜県多治見市臨済宗永保寺の修行場を思わせる梵音巌の庭園(1314頃)。また石川県金沢市《鈴木大拙記念館》(谷口吉生、2011、写真)は身体/液状物質、言語/自然など、境界の転換・接続の波動をくまなく伝える。

谷口吉生《鈴木大拙記念館》2011 撮影:筆者

多様化の時代に

社会哲学者ハーバーマスは1981年に、近代社会が科学技術・倫理道徳・芸術文化の各領域でそれぞれ専門化・細分化を、つまり境界化を極度に加速し、断片的な多様化の危機に陥ると論じた。境界を超える庭とは正反対に、境界化を厳密に行う危険性である。正鵠を射た予言で、事実、たとえば領域横断ネットワークや都市再開発デザインの近未来といえども、それが総合か断片か、見極めがたい。わが国の文化・伝統に即した検証も不可欠だとすれば、ディスプレイは閉じて、庭園に赴きたい。

庭園のベンチで橘俊綱『作庭記』(11世紀)の再読もよいが、やはり散歩を重ねたい。紙幅も乏しいゆえ、メモにすぎないが、以下の庭園は、境界を超える リ・クリエイトの精神をあらためて語りかけるにちがいない。

まず琵琶湖疎水を敬重した7代小川治兵衛の京都《無鄰菴》(1896)や《對龍山荘》(1905)。現代では、画家モネのジヴェルニーの庭をモデルにした高知県北川村の《モネの庭》(2000)にみる「植物のミメーシス」。杉本博司《江之浦測候所》(2017)のダブル・コンティンジェンシー。そして本塾三田構内のイサム・ノグチによる《旧第二研究室・小庭園》(1951)である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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