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【特集:公園から都市をみる】
座談会:公園がそこにあり続ける意味とは

2021/06/07

コロナ禍と公園

長田 東京都では公園と言っても大きなものから小さなものまであり、規模の違いによって役割も様々なのだと思います。

竹内 かつて都市公園法の中にいろいろな条項が定められ、規模に応じて機能が分けられていましたが、今は地域ごとに住民の方々も違えば、自然環境も違いますし、使い方もそれぞれです。自治体の職員が互いに工夫して、各所で独自の公園づくりを行っているのが実状ではないかと思います。

今の深澤さんのプラント付き四阿は、これからのコロナの時代にふさわしい施設だと思いました。災害時でなくても、公園の中にちょっとした屋根があって、テーブルやベンチがあり、Wi-Fiも飛んでいたら、私も外で仕事をしたくなってしまいます。

私の住む横浜の港北ニュータウンでは、コロナ禍で外に出る人が多くなり、平日昼間でも小学生の男の子とパパのキャッチボールが多く見られます。朝昼晩と公園の調査をしていると、まず午前中は未就学児の子ども連れの人たちがやってきて、午後になると授業が終わった小学生が集まってくる時間があり、夕方には大体決まった時間に高齢の方、5、6人が四阿に集まってくるコミュニティが生まれています。場所によっても違いがあり、緑道には健康志向の中高年ランナーが走っていたりします。

こういう利用のされ方を見た時、公園をつくる側として何が提供できるのかと言うと、極端な話、屋根と電源のある広いスペースさえあればいいのではないかと思います。中学生が勉強したり、サラリーマンが仕事をしたりと普段家の中でやっていたことをみんなが外で実際にやり始めている。そういう受け皿になることがこれからの公園に求められるような気がします。

昨年の第1回の緊急事態宣言時、東京都では、密になるといった苦情が届いたので都立公園の全ての遊具に立ち入り禁止のテープを貼って使用禁止にしました。でも、横浜市にある港北ニュータウンは禁止にしていなかったのです。

深澤 それは自治体の方針の違いでしょうか。

竹内 都立公園は東京都で意思決定し、指定管理者がいる公園もすべて遊具の使用を禁止にしました。横浜市の場合、市の方針かどうかわかりませんが、港北ニュータウンは緑道があるせいか、子どもたちが遊具に集中して密になっている姿はまったく見られませんでした。

緑地で虫捕りをしていたり、水辺でザリガニを釣っていたり、緩やかな芝生の斜面を自転車で下ってみたりと、思い思いの遊び方をしていて、なかなか面白い様子が見られました。

深澤 私たちも緊急事態宣言以降に自治体の対応についてアンケートをとりましたが、これまでに業務で関わった全国333の自治体のうち、遊具を利用停止にしたのは51の自治体だけでした。それ以外の自治体では注意喚起する貼り紙を貼るだけに留めたということで、自治体レベルでは意外と柔軟な対応がとられたようですね。

石川 統計的なエビデンスも重要ですが、私は個別の公園で実際にどのようなことが起きていたかに関心をもって見ていました。調布市でも遊具に使用禁止のテープが貼られましたが、実は、その前に何が起きていたかというと、子どもたちが学校に行けなくなると、これまであまり使われることのなかった街区公園が児童公園のように賑わったのです。調布市内の多くの公園でかつての団地のような風景が見られ、公園も久しぶりに子どもたちに遊んでもらえるのを喜んでいるようでした。

そうしたら、次に「公園で遊んではいけない」ということになりました。子どもたちが近所のお年寄りに「家にいろ」と怒られる。私もさすがにそれはどうなのかと思いましたが、すると、住宅地の中で袋小路になっているような場所が子どもたちの遊び場へと変わったのです。

アスファルトの路面が黒板のように落書きだらけになり、市の公園用地になっているような空き地にも子どもたちがあふれていきました。公園の利用が禁止されると、街の中で公園代わりになる場所が現れたのです。

長田 それは興味深いですね。

「そこにあること」の価値

石川 先ほど竹内さんから、公園は時間帯によって利用者も違えば、時代に応じて使う人も変わっていくという話がありましたが、こうした「使い回せる」ことの最大の条件は公園が「そこにあること」だと思うのです。

かつて公園の価値を測るために、利用者数を指標にしていた時期がありました。使われていない公園はまるで価値がないかのような扱いを受け、自治体の人たちも賑わいを創出することに奮闘していました。でも、市民の側からすれば、賑わなくてもよいところに公園の特権があると思うのです。たとえ一見無駄に見えても、公園はそこにあり続けることに重要な価値があるのではないかと思います。普段は役に立っていないように見えても、街の中にオープンスペースが確保されているのは公園にしかできない芸当です。

コロナ禍で路上や空き地が遊び場に変わったのも、きっかけは近所の家庭がピクニックチェアと小型のテントを持ち出したことでした。それらが置かれた途端、そこに「遊んでもいい感」みたいなものが生まれたのです。ちょっとした装置がその場所に意味を与えるのはベンチの記号性と似ています。

公園も必要なものは利用者が必要に応じて取り替えていけばよいだけで、公園そのものが短期的に役に立つ、立たないといった議論はあまりしなくてもいいのだと思っています。

長田 今のお話を聞いて自分の子どもの頃を思い出しました。街の中にもちろん公園もあったけれど、一方で建設資材が置いてあるような空き地を秘密基地にして遊んだりもしていました。わかりやすいイメージが「ドラえもん」ですね。ジャイアンが土管をステージに見立ててそこが公園に変わる。

石川 あの公園は街全体が建設現場だった高度経済成長期の風景ですよね。

長田 今の公園にはあり得ない風景ですが、そこで遊べるとわかると子どもたちは集まってくる。

竹内 今、空き地などで秘密基地をつくると通報されてしまうんですよね。小学生の息子さんが公園の資材を引っ張り出して秘密基地をつくったという理由で友人が学校に呼び出されたのです。それで、お母さんはプレイパークみたいなところでやりなさいと注意したのですが、その子は「それじゃ秘密基地じゃなくなっちゃう」と言ったそうなんです。

石川 その子、いいセンスしていますね。

竹内 そうですね。でも、今は街の中にそういう場所がない。しかも近所の人は直接注意するのではなく、いきなり学校や役所に通報してしまうからますます萎縮してしまう。

「ここにいてもいい感」を出す

長田 いろいろと面白い論点が出ました。皆さんの中でこういう公園がよいといった事例はありますか。例えば、私の住む大田区には、近隣住民があえて遊具などを置かず、自分たちで管理する仕組みを取り入れた「くさっぱら公園」という公園があるのですが。

石川 二子玉川の公園では、完成前から住民が公園クラブを立ち上げ、完成後の維持・管理方法を考えるワークショップをやっていたそうです。こうした事例は最近増えています。地元のお母さんたちが管理する花壇にコスモスが咲き乱れ、看板には「お花は摘んでいいよ」と書いてあることにとても驚きました。看板から伝わってくる「ここにいてもいい感」が素晴らしいと思います。

もう1つ、札幌の大通公園にイサム・ノグチの〈ブラック・スライド・マントラ〉という有名な彫刻作品があります。家族で旅行で訪れた時、あの作品は大人にとって完全なアート作品に見えるので私と妻は30メートルくらい手前で立ち止まってしまったのですが、子どもたちは躊躇なく歩み寄ってすべり台として遊び始めたのです。それはいろいろ考えさせられる体験でした。大人は意味で見てしまうけれど、様々な可能性があるのだと気づかされました。

長田 今の2つの例はどのように見立てるかということと、使い手がどのようにルールを決めるかということがポイントですね。公園内の看板に書かれているのは大体禁止事項なので、ついビクビクしてしまいますが、「どうぞお好きにやってください」と書いてあるととても新鮮に感じられます。

石川 公園は共通のルールや使い方が決まっておらず、むしろそれらを個別の判断に委ねているのです。例えば、キャッチボールを禁止している公園がありますが、その根拠になる法律はなく、現場の運用で禁止しているだけです。すると、結局は現場の裁量なので、逆に、ここではキャッチボールをしてもいいですよ、と伝えるサインがあってもいいはずなんです。

長田 なるほど、臨機応変な判断で利用できるのが公園のよさということですね。私も子どもが小さい頃は、先に来ている利用者の様子をしばらく眺めてどういうルールになっているかを観察していました。そこで例えば、違う学年の子に話しかけられて一緒に遊ばせてもらう。そういう日はいい遊び方ができたなと満足して帰ってきたものです。

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