【特集:学塾の歩みを展示する】
建築史から見たキャンパスという展示空間
2021/05/10
谷口建築とモダニズムの時代
曾禰中條建築事務所の後、慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。
1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。これらによって、谷口は建築家の最も栄誉ある賞、日本建築学会賞(作品)の第1回受賞者に輝いた。学生ホールの東西の両壁面には猪熊弦一郎による壁画「デモクラシー」があり、今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働は現在、南館にある「ノグチ・ルーム」につながる。これは1951年に完成した鉄筋コンクリート造の第2研究室の一部を移築したものだ。谷口は木造の校舎、鉄筋コンクリート造の校舎を通じて、縦に細い窓を連続させるというデザインモチーフを用いることで、三田キャンパスに清新な一貫性を付与したのだった。
煉瓦色が姿を消した時代に建っているのは、左手の部分が1959年にでき、1962年に全体が完成した西校舎も同じだ。左手の部分には、建設開始まで赤煉瓦の壁がそびえていた。それは1915年に曾禰中條建築事務所の設計で完成した大講堂が1945年の空襲で焼け落ちた姿で、当初は修復して用いることも念頭に置かれたが、結局はまったく新しいものに替えられたのである。
戦前の日本で有数の規模を誇った2000席の大講堂の代わりに、800人教室(現・西校舎ホール)が位置するが、これが大空間を内包した建物だとは気づきづらいだろう。谷口吉郎の学生ホールを現在の北館の位置に移築した跡地に、右手の部分が建設されたが、どちらも変わらない外観であるためだ。設計を担ったのは三菱地所の設計部(現・三菱地所設計)で、「一丁倫敦」と呼ばれた丸の内の赤煉瓦街が戦後のビルに建て替わっていくのと並行した動きだった。
コンクリート打ち放しの構造体を露出させて、さまざまな空間を内包するさまは今、とても魅力的に映る。それはなぜだろうか。戦後の都市開発をリードした一流の設計者が全体を科学的に計画し、細部までデザインし尽くした清々しさのためだ。今のように多種多様な既製品があるわけではないから、鉄や木といった素材そのものが生かされ、戦前や現在のように「大学らしさ」や「講堂らしさ」などを目指していないので、時の流れに耐えうるのだろう。あまり注目されていないかもしれないが、第1校舎と共に、この時代を語る貴重な建築であることは強調しておきたい。
三田キャンパスを“編み直す”
1969年に完成した研究室棟も三菱地所などが設計したものであるが、同じモダニズム全盛の高度成長期とはいえ、この頃になると優しさが加わっているのが分かる。象徴的なのが「煉瓦」の復活だ。煉瓦色の外装と白く塗装された柱梁の組み合わせが、図書館旧館との調和を意識していることは明らかだろう。前面に並べられた大きなプランターにも、既存の環境への配慮といった傾向が読み取れる。同時に、これらや建物の柱梁には工場生産されたプレキャストコンクリートが使われている。繰り返しによる工業化の美学は健在なのである。
ユーモラスに「父は慶應の建築を26棟設計しています。〈中略〉私には3件しか依頼がありませんでしたけど(笑)」と、槇文彦との対談で語っているのは、MoMAや東京国立博物館法隆寺宝物館などを設計した世界的建築家の谷口吉生だ。谷口吉郎の子であり、高校・大学と慶應で学んだ。槇もまた、やはり世界的に著名な建築家であり、彼が通った慶應義塾幼稚舎の設計を谷口吉郎に依頼した槇智雄の甥である(槇文彦・谷口吉生「慶應建築の系譜」『三田評論』2020年2月号、74~87ページ)。
日吉図書館や湘南藤沢キャンパスを手掛けた槇文彦が、最初に慶應の仕事を行ったのが三田キャンパスの図書館新館で1981年に完成し、ついで大学院校舎を1985年に完成させた。外観は装飾を排除しながらも四角い箱ではなく、表皮の繊細なデザインによって、外面のラインがどこかを確定しづらくしている。図書館新館の入り口や、大学院校舎の外部階段は、それが面する中庭に手を伸ばす要素である。
隣接する図書館旧館や塾監局に対しては、外壁のタイルの色を合わせたという以上に、内部からガラス越しに新たな眺めを提供することで関係性を与えている。モダニズムのデザインを皮膜として操作し、内部と外部に二分されない空間をめざす槇の作風が三田キャンパスを編み直しているのが分かる。
三田キャンパスに見る「慶應的なもの」
三田キャンパスの建築からは、「線」でつながる隣接性が読み取れる。モダニズムの時期においてすら、時代が断絶的なものではないことに思い至らせる。建設された時にそのようなものであったことに加えて、このように各時代のものが残されているということ。これ は「慶應的なもの」ではないだろうか。
三田キャンパスには歴史がある。古くからのものがあるというだけの意味ではない。「歴史」そのものが存在する。格闘し、再解釈し続ける人間というものが実感できる全国でも貴重な空間である。未来をつくるのは、単線的でない教養だろう。歴史という大切なものを、三田キャンパスは建築という具体物で示している。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2021年5月号
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