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【特別対談】「慶應建築の系譜」

2020/02/29

  • 槇 文彦(まき ふみひこ)

    建築家・特選塾員。1928(昭和3)年生まれ。慶應義塾幼稚舎、普通部を経て52年東京大学工学部建築学科卒業。ハーバード大学大学院修士課程修了。65年槇総合計画事務所設立。93年プリツカー賞受賞。

  • 谷口 吉生(たにぐち よしお)

    建築家・塾員。1937(昭和12)年生まれ。父は建築家の谷口吉郎。60年慶應義塾大学工学部機械工学科卒業。ハーバード大学大学院修士課程修了。83年谷口建築設計研究所所長。2005年高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。

  • (司会)小林 博人(こばやし ひろと)

    慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授

小林 本日、慶應義塾出身の著名な建築家であられる、槇文彦先生と谷口吉生先生のお二人による対談「慶應建築の系譜」が行われることを大変嬉しく思います。お二人はともに慶應のご出身であるとともに、ハーバード大学でも学ばれており、また丹下健三先生との関係も非常に強くていらっしゃいます。そして、慶應の建築の多くをお二人とも設計されておられます。今日は慶應の建築についてのお話をメインに、お二人の今までの建築、あるいは交遊、そして建築家としての人生についてお話をいただければと思います。

谷口吉郎の建築

 有り難うございます。槇でございます。最初に槇家と慶應義塾の関係をお話しさせていただきます。

私の曾祖父は槇小太郎といって長岡藩の藩士でした。それが戊辰の役で負けまして、一族ばらばらで仙台に行き、それから会津にも行った。小太郎はもう侍の時代ではない、これからは学問の時代だということで、福澤先生の門をたたきました。その息子が槇武と言いまして私の祖父になります。武には5人の男の子がいて、私の父は3番目です。長男が槇智雄といいまして、幼稚舎が天現寺に移転する頃に小泉信三塾長のもとで常任理事をやっていました。そういうことから槇智雄が谷口さんのお父様である谷口吉郎(たにぐちよしろう)先生に、今の天現寺の建物(幼稚舎本館①)の設計を依頼したと聞いております。

私のジェネレーションは従兄弟をはじめ、皆、慶應で、はじめから「慶應に行くのだ」ということになっていたのですが、私は幼稚園に行かなかったので、幼稚舎の試験の日まで、一体何のために自分が試験場に来たのか分からなかった。だから先生の言うことに何も答えられずに帰ってきた。それでも入れてもらったのです(笑)。

私が入ったのは、まだ幼稚舎が三田にあった頃でした。三田のプロパティ(敷地)の北側に道があり、そこから入ったすぐ右側にありました。幼稚舎の建物は私の入学当時、相当古くなっていました。お昼になると上級生が、大きなクリームパンやジャムパンを買って食べているのがうらやましかった。自分も大きくなったら、あのように食べたいと思っていたのですが、途中から移転した天現寺には、もうそういうサービスはなかった(笑)。

三田の裏門(現西門)を入りますと坂道になっていて、上って行くと左に旧図書館、右に塾監局がありました。その前が中庭で、私が子どものときはそこから海が見えて、ゆっくりと船が走ったりしていました。非常に印象的な丘でした。

その後、2年の3学期に天現寺に移りました。新しい幼稚舎本館は素晴らしい建物で、残りの4年間、大変エンジョイさせていただきました。「君たちはこれから東洋一の学校に行くのだ」と言われました。当時「日本一」の上に「東洋一」という表現があったんですね。やはりここに慶應義塾としていい建物をつくろう、という意志が非常にあったのだと思います。

これは幼稚舎工作室(②)で、先生が上のほうにいて、下のほうで生徒が作業ができる。今でもあるのではないかと思います。理科室(③)もあり、当時としては珍しい机です。このように非常に印象に残るものがあったのが天現寺の幼稚舎です。一番嬉しかったのは2階から階段で直接運動場に出られることで、皆、元気に駆けずり回っていました。谷口先生のおかげで非常に幸せな建築環境で小学校時代を過ごさせていただいた。このことは後年建築家になってからも、とてもよかったと思っています。

私の記憶では、祖父の武は本郷の真砂町に住んでいました。真砂町は本郷3丁目の角から西へ少し行った高台で、東京大学から遠くなかった。それで谷口吉郎先生が、まだ東大の学生のときに時々そこに遊びにきていたと聞いています。当時からこのようなお近づきがあったのではないかという気がします。

谷口 建築家の谷口吉生です。よろしくお願いします。槇先生とは、今、お話があったように親子二代のお付き合いをさせていただいていて、しょっちゅうお会いしています。いつもは日常的なことが話題ですが、今日は皆様の前で、違う雰囲気なので、どのようにお話ししてよいか戸惑っています。

それでは、少し、父・谷口吉郎の建築を紹介していきたいと思います。まず、東京工業大学水力実験室(④)、こ れは大岡山の東京工業大学の入り口の横にあった建築です。父がいちばん最初に設計を手がけた建築です。プロポーションが当時、日本に導入され始めていたインターナショナルスタイルの建築です。全体が抽象的な線や面によって構成された非常にいい建築だったのですが、水力実験室なので、水から出た水銀がたまり、今から20年ぐらい前に解体されてしまいました。

 谷口先生は東京大学を卒業されてすぐに東京工業大学の先生になられたのですか。

谷口 そうです。東大の大学院から、新しい大学であった東京工業大学の講師として招かれ、27歳で助教授になっています。先ほどお話がありました通り、槇先生と私の父が最初にお会いしたのは本郷の御祖父様のお宅で、そこによく遊びに行ったのだと思います。父がいちばんはじめに設計したのは槇家のお墓です。

父はお墓とか記念碑の類を、生涯で70件ぐらい設計しています。「お墓ばかり設計するので、『博士』より『墓士』と書いたほうが合うと言われる」と本人が話していました(笑)。

 私も谷口先生のつくられたお墓に入るはずだったのですが、父は子どものいない同じ槇家に養子に行ってしまったので、私は私自身が設計したお墓に入ることになっています(笑)。

①幼稚舎本館(慶應義塾福澤研究センター蔵)
②幼稚舎工作室
③幼稚舎理科室(慶應義塾福澤研究センター蔵)
④東京工業大学水力実験室
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