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【特別対談】「慶應建築の系譜」

2020/02/29

ハーバードでの出会い

 ある日、谷口吉郎先生に呼ばれ、「槇さん、実は息子の吉生が今年からハーバードの建築学科に行く」と言われました。僕はちょうどその頃ハーバードでも教えかけていたので、「会ったらよろしく頼む」と。実際に教員として行きましたら谷口さんが生徒の一人でいられた。

谷口 1962年のことですね。そこではじめて槇先生とお会いしたのです。英語で話すのが照れくさかったものだから、ずっと日本語で話していたら、授業が終わった後、「なぜ日本語で話すのか。ここはアメリカだから英語で話せ」とクラスメートに怒られた。もう1つ、「日本人の男性で、あんなハンサムな人がいるのかね」と言われ、僕はだいぶ傷つけられたことを覚えています(笑)。

 僕たち建築家は、先生がいないときはスタジオで勝手に与えられた課題をやって、夜中になるとおなかが空くので、ハーバードヤードのヘイズビックフォードという一晩中開いている安い店に行ったんです。あなたはヘイズビックフォードを覚えてる?た。

谷口 覚えていますよ。今、カフェテリアになっています。当時は徹夜ばかりしたからよく食べに行きました。

 僕はそこでいつもイングリッシュマッフィンを食べた。今もうちでは朝はイングリッシュマッフィンです。あなたはここに何年おられたのですか?

谷口 結局、1960年に日本を出て、1964年に帰るまで4年半の間、一度も帰ってきませんでした。当時は今と違って夏休みに気軽に帰ってきたり、ネットや電話で話せませんでした。

慶應の工学部の機械工学科を卒業していたので、共通する学科は取らなくてよかったのですが、建築の歴史から法律まで全部やらされて。2年間バチェラーのコース、2年間マスターのコースと、計4年間行きました。寄宿舎は、グロピウスが設計したグラデュエートセンターに住んでいました。槇先生がいらしたのはいつ頃ですか。

 僕はすでに東京大学で建築をやっていたので、マスターコースに1年間だけ行ったんです。1953年のことで、まだロビンソンホールとハントホールと両方に建築学科があり、僕もグロピウスの設計した寄宿舎の2人部屋にいました。あなたは1人部屋でした?

谷口 いや、外交官志望の学生と一緒に寄宿舎に住みました。彼にはいろいろなことを教わりました。例えば当時、日本人の男性は、皆、頭にポマードや油をつけていたら、「そんな臭いものをつけたらアメリカではもてないからやめろ」とか(笑)。

 谷口さんは卒業のときにアップルトンという、設計のいちばん上手い人にあげる賞をもらったんですよね。

谷口 当時として、結構なお金をいただきました。どういう義務があるのかと聞いたら、義務はない、何に使ってもいいと言う。結局そのお金で、ニューヨークの、後で設計することになったMoMA(ニューヨーク近代美術館)へ友達たちと行って、残りは少し貯金できました。

 僕は1968年に、シカゴのグラハムファウンデーションからフェローシップをもらったんです。これがまた非常に豊かなフェローシップで何もしなくていい。義務は1週間シカゴに集まるというだけです。1万ドルくれたのですが、そのときのレートだから360万円。日本の初任給が2万円ぐらいのときでした。

僕はその頃ワシントン大学で教えていたんですが、年収が5千ドルだったので、そのお金で2年間遊ぶことにしま した。そして、東南アジア、中近東やヨーロッパに行き、いろいろな経験をすることができました。

谷口 私は卒業後、半年間ほどボストンの建築事務所で働き、日本に帰ってきました。

実は、私は一級建築士で日本の建築の大学を出ていない第1号のようです。日本に帰国後、一級建築士の試験を受けようと思ったら、外国の大学の卒業資格ではダメだと言われた。「デザインスクール」という名前だと、日本ではインテリアデザインかファッションデザインなので、建築士の試験を受験できない。「大学のカタログを全部訳して持ってこい」と。それを出したら、「今度は卒業証書を持ってこい」と。持っていったら、当時のハーバードの卒業証書は全部ラテン語で書いてあって読めないので怪しまれましたが、どうにか建築士の試験を受けさせてもらえました。

現在の慶應義塾の建物をつくり続けて

 三田の新図書館(⑫)が自分の初めての慶應の仕事でした。それまで慶應にはお世話になったけれど、だからといって別に何もしていなかった。そうしたら黒川紀章が慶應の図書館をやりたがっているという話を聞いた。そこでやはり慶應は自分の縄張りだと思って(ヤクザと同じですね)、生まれて初めて営業をしました(笑)。

石川忠雄塾長のところに行き、「新図書館をやらせていただけますか」と言うと、快く「うん、やりたまえ」と言っていただき、新図書館を設計することになりました。新図書館は大きい建物ですが、プログラムではもっと大きかった。地下5層を書庫にすることで、このくらいで済ませることができたんです。入り口に飯田善國さんの彫刻、それから、宇佐美圭司さんの版画、保田春彦さんの彫刻といろいろなものがあります。ジェニファー・バートレットの大きな壁画もあります。

旧図書館は東京大学1期生の曽禰達蔵(そねたつぞう)さんがおやりになった。これが慶應の50周年のときで、僕が新図書館を頼まれたときは、125周年ですから75年たっています。東大の名簿を調べましたら、もちろん曽禰さんは第一期生で、僕は74期生。ほとんど同い年ぐらいのときに、それぞれ慶應の図書館を設計したんですね。

旧図書館の改修もやったのですが、そこで一番困ったのは絨毯の色でした。昔は白黒写真しかないので、どんな色だったかわからない。今は白黒の写真からカラーを再現することができるそうですが、当時はそんなことはできなかった。

その後、日吉の図書館(⑬)をやらせていただきました。手前にある競技場は、昔は慶應の普通部と商工部の間でラグビーの対校試合がよくありました。今はサッカーが非常に盛んですが、あの当時、慶應は伝統的にラグビーでした。皆さん、若いときからラグビーをやっていました。

幼稚舎の新体育館(⑭)は、谷口さんの設計ですね。

谷口 これは、私がいちばん初めに慶應の建築に関わらせていただいたものです。どういうご縁かと申しますと、『三田評論』の1976年12月号に、当時の幼稚舎長、川崎悟郎先生と父が幼稚舎の建築について対談している。そして、「次は谷口先生に体育館をお願いすることになるかもしれません」という話で終わっています。それが、父が亡くなったので私のところに回ってきたということです。

 これが1987年ですね。

谷口 ええ、これは幼稚舎の創立110周年記念でした。1937年、私が生まれた年に父が幼稚舎本館をつくり、50年後にこの体育館ができました。

次に私が設計させていただいたのが、幼稚舎新館21(⑮)です。けやきホールという食堂があります。父の幼稚舎の建築(本館、自尊館、百年記念棟など)にはいろいろな様式がありますが、私はできる限り父の初期、1937年当時のモダニズムスタイルでいこうと思い、真っ白な感じの建築をつくったわけです。

 僕たちも幼稚舎の会合があると、このけやきホールを使わせていただきますよ。

⑫三田図書館新館
⑬日吉図書館
⑭幼稚舎新体育館
⑮幼稚舎新館 21
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