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【特集:学塾の歩みを展示する】
塾史展示館への期待:「ほおづえをつく諭吉」の写真

2021/05/11

  • 泉 麻人(いずみ あさと)

    コラムニスト・塾員

三田キャンパスの図書館旧館、改修工事が完了した通称「八角塔」のある館の2階にオープンする〈慶應義塾史展示館〉を見学することになった。三菱1号館などの赤レンガ建築で知られる明治の大建築家・曾禰達蔵が後輩の中條精一郎とともに設計したこのシンボリックな図書館、現役学生の時代に日々利用した思い出の場所、というわけではないけれど、当時よりもむしろこういう物書き仕事をするようになってから、昔の『時事新報』や『三田新聞』の風俗記事を調べに来ている。

福澤諭吉の研究者・都倉武之准教授の案内で、慶應連合三田会会長の菅沼安嬉子さんとともに(三田会の情報ウェブで御名前を存じあげていた先輩なのでちょっと緊張!)フロアーの展示を眺めていった。

福澤が師事した緒方洪庵や杉田玄白との関係文書や諭吉の父・百助が収集していた古銭……なんていったものまで、マニアックな史料がいろいろとあるけれど、そもそも福澤家は古物をよく保存していたらしい。

「それと、けっこうネットオークションに貴重なものが出回っているんですよ」と、都倉先生から意外な内情を伺った。値は定かではないが、ネットで買い取った品もいくつかあるという。

出元がネットかどうかは知らないけれど、若き福澤がヨーロッパに渡航した際(『西洋事情』を著す前の文久年間だろうか……)にフランスやオランダで撮影した(現地の写真屋に撮ってもらった)ブロマイド風の写真があって、なかでも〈オランダ・ハーグ〉と撮影地を記した〝ほおづえをつく諭吉〟のショットが目にとまった。紋つきの和服に頭はまだチョンマゲだが、西洋の洒落(シャレ)男風のポーズが様になっている。カメラマンに指示されたのかもしれないが、こういうのを見ると、福澤諭吉にはそれなりの芝居っ気・・・・があったのだろう……と想像される。

そんな〝イケテる写真〟ともう1つ、諭吉の人間性が垣間見られるユニークな文書があった。

『言海』といういまも存在する辞書の発刊を祝う宴会(明治24年6月)の招待状なのだが、祝辞を述べる賓客リストの自らの名(題目とともに「福澤先生」と記されている)の所をペンで消し潰している。

これ、単に急用ができて会を欠席した、ということではなく、福澤の右側の招待客の先頭にあたる箇所に伊藤博文(「伊藤伯」と記されている)の名があるのに腹を立て、自分の名を消去したのだという。欄外に文句らしきことが書きつらねられているけれど、どうやらこういうことらしい。自分より伊藤が先、というのが気に食わなかったわけではなく、市井の書物たる辞書の祝宴会のトップに政治権力者のあいさつをもってくるとは何事か……と憤ったようだ。さらに自分の祝辞もそこに並べて、偉そうにプログラムされていたのがおもしろくなかったのかもしれない。しかし、この招待状、福澤先生自身が一種の証拠品として保存されていたのだろうか。

そのおよそ10年後、明治34年の2月に福澤は死去するが、三田構内にあった自宅を出る学生たちの葬列の模様をとらえた写真も印象的だ。この緩やかに湾曲した坂道は、いまの図書館新館脇(ここに福澤終焉の地の碑もある)から東門(幻の門)へっていく所に違いない。写真左隅の崖下に幽(かす)かに写りこんでいる三角屋根(黒瓦と思しき)の建物は、僕が中等部生だった昭和40年代中頃までは残っていた多田商店の木造蔵ではないだろうか。

早慶戦が始まったのは先生が他界して2年後、明治36年11月のことだが、早稲田がわが慶應(野球部合宿所)に送りつけてきた、生々しい筆書きの挑戦状が展示されていた。挑戦状とはいえ、文中には「御教示にあづかり以て大に学ぶ所あらば素志此上も無く候」なんて謙虚な一節も見受けられる。そう、野球部の創設は慶應の方が約10年早く、このとき早稲田野球部はまだできて2年目くらい。先輩の胸を借りる、というスタンスだったのだ。

この〝謙虚な挑戦状〟の日付が11月5日、早慶戦(まあこの時点では〝格〟からいっても慶早戦と呼ぶべきかもしれない)の開催が11月21日だから、かなりスピーディーな決断だ。実際、対戦の話はそれ以前から両校の間でやりとりされていた、という説もある。

最初の早慶戦の会場が綱町グラウンドだった、と知ったのは学校を卒業してからのことである。中等部時代の体育や運動会、そしてサッカー部に入っていた僕はほぼ連日通ったグラウンドだ。久しぶりに立ち寄ってみようか。

中等部の西裏方、三の橋手前にひっそりとある綱町グラウンドはスペースこそ昔と変わらないが、いつしか木造の建物が消えて、土のフィールドもスマートな全天候型に変貌している。中等部生の時代、このグラウンドの土に破傷風菌がいるとかの理由で毎年痛い筋肉注射を打たされたものだが、その心配はなくなった、ということだ。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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