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【特集:学塾の歩みを展示する】
早稲田大学の建学の理念と「早稲田人脈」

2021/05/10

  • 廣木 尚 (ひろき たかし)

    早稲田大学大学史資料センター講師(任期付)

はじめに

本稿に与えられたテーマは「早稲田人脈」と「学風の形成」である。なるほど、早稲田大学に限らず、学風や人脈は大学の歴史を考える際の重要テーマである。早大では、現在、2032年の完成を期して『早稲田大学百五十年史』の編纂が進められているが、その目次案にも「早稲田大学成立当時の教員と学術」「20世紀初頭における校友・学生たち」といった項目が配置され、早大で育まれた学風と人脈を時代ごとに把握することが目指されている。

とはいえ、重要性は承知しながらも、いざそれを学問的に説明のつく形で書きあらわそうとすると、途端に頭を抱えることになる。1882年の創立時、男子のみ80人だった早大(1902年までは東京専門学校)の在学生数は、1918年には1万人に達し、現在は5万人を超える。卒業生に至っては、2021年4月現在、約66万人を数える(早稲田大学校友会ホームページより。逝去者を除く)。では、この膨大な人々の中に、何らかの特徴的な「人脈」をみいだすことは可能だろうか。また、創立時、政経・法・理の3科だった学科体制は(理学科は2年余りで廃止)、20世紀初頭までに文・商・理工の各科を加え、現在は13学部にまで拡大した。では、そこから生み出された多種多様な学問に――例えば、津田左右吉と佐藤功一と大山郁夫に――共通する「学風」は存在するだろうか。

他方、早大には「学問の独立」や「在野の精神」など、その学風や人脈をあらわすものとして、学外にまである程度知られた理念がある。もちろん、理念はそのまま実態をあらわすものではないが、なにほどか反映していると考えることはできよう。そこで、以下では、「学問の独立」に代表される早大の建学の理念が、いかなる状況の中で生まれ、いかなる意味内容が込められているのか、そして、具体的な人脈なり学風なりといかなる関係にあるのか等について、早大の歴史に関するこれまでの研究に学びつつ、私見を述べてみたい。

「学問の独立」

一国の独立は国民の独立に基ひし、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、其国を独立せしめんと欲せば、必らず先づ其民を独立せしめざるを得ず。其民を独立せしめんと欲せば、必らず先づ其精神を独立せしめざるを得ず。而して其精神を独立せしめんと欲せば、必らず先づ其学問を独立せしめざるを得ず*1

これは大隈重信のブレーンにして東京専門学校創立の主導者である小野梓が、開校の日に行った演説の一節である。建学の理念である「学問の独立」を説いた演説として、早大の歴史を語る際には必ず言及される。福澤諭吉の「一身独立して一国独立す」にも通じる理念だが、広いアジアの中で独立を保っているのは日本と清朝のみという状況にあって、「学問の独立」とは、小野にとって、何よりも「一国の独立」を保つために達成されねばならない課題だった。

この演説の中で、小野は「学問の独立」の具体的内容についても説明している。まず、小野が挙げたのは「邦語」による教育である。日本では儒学の伝来以降、中国、英米、フランス、ドイツと、外国に模範を求めるばかりで「日本の学問」がない。また、外国の言語・文書を教育に用いた結果、学生は学問の本論に入る前に、外国語の習得に膨大な労力を割かなければならず、学問の核心を理解する上での障害となっている。そこで東京専門学校では邦語で専門的な学問を教授し、学生が効率的に学問を修めることができるようにしたのだと小野は説明する。西洋の学問からの日本の学問の独立、それを保証するための邦語教育、これが小野のいう「学問の独立」の1つの意味である。

加えて、小野は「学問の独立」にもう1つの意味を含ませた。演説の末尾、小野は「東京専門学校をして政党以外に在て独立せしめんと欲する」と述べている。自分はこの学校の「議員」(現在の理事に相当)であるとともに立憲改進党員でもあるが、だからといって、この立場を利用して学生諸君を自己の所属政党に誘導するような卑怯なまねはしない。本校の望みは学生が「真正の学識」を積むことにある。「本校は決して諸子の改進党に入ると自由党に入ると乃至帝政党に入るとを問て其親疎を別たさるなり」。「政党」(立憲改進党)からの学校の独立。これが小野が「学問の独立」に込めたもう1つの意味である。

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