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【特集:歴史にみる感染症】
座談会:文学に現れる感染症

2020/11/05

メルヴィル、カミュ、そして小松左京

 皆さんの非常に啓発的な考察をお聞きした後に、アメリカ文学の視点から少し付け加えさせてください。まず、これは意外に探究されていないのかもしれませんが、カミュの『ペスト』ははっきりとメルヴィルの『白鯨』の影響を認めているんですね。

復讐のためにエイハブ船長がモビィ・ディックを追いかけなければならないのも、疫病にかられているようなもので、実際英語の“pestilence” には字義的な疫病と共に隠喩的な「疫病神」のニュアンスがありますが、『白鯨』の「ジェロボウム号の物語」の章では、黄熱病に冒された船員のいる捕鯨船が描かれる。

ですから、カミュはメルヴィルの具体的な疫病の描写を意識したのかもしれない。しかし、今回読み直して面白かったのは、『白鯨』ではマップル神父が聖書のヨナの話をしますが、『ペスト』の中にもパヌルー神父という人が登場し、こちらは非常に不条理な死を遂げる。メルヴィルがあくまで聖書的予型論を前提にした一方、カミュはペスト禍における神なき世界を描いたことの、これは象徴でしょう。

それから、文学史的な連関で言えば、メルヴィルから影響を受けたカミュと、ポーの影響を受けたドストエフスキー双方の影響を受けたのが、わが国が誇る日本SF第1世代の代表格である小松左京の『復活の日』です。

これは、宇宙から来た病原体MM88を手に入れた国が加工して生物兵器を作り上げるも、それが米ソ冷戦における争奪戦の中で流出してしまい、世界中に蔓延する話です。皆、最初は「風邪かな」と思いつつもグローバルに広がっていくところは、今日のコロナ禍を連想せざるを得ない。

小松さんはもちろんスペイン風邪の流行を意識したのかもしれませんが、同時に、この小説が書かれたのは1964年ですから、その2年前のキューバ・ミサイル危機の記憶が残る中、細菌兵器のウイルスが蔓延したことが全面核戦争につながるパニックを生き生きと描いている。

作中ではARS(Automatic Revenge System)と言われる「全自動報復装置」が登場しますが、これはキューバ危機の時には全面核戦争を引き起こすと言われたMAD(Mutual Assured Destruction)つまり「相互認証破壊」システムの変形ですね。しかもこの物語では、北米でとてつもない大地震が起こり、それを敵からの攻撃だとコンピューターが誤認してしまい、ARSが作動し核弾頭が発射されて、全面核戦争が本当に起こってしまうという、恐ろしい事態になります。

しかし、この『復活の日』の真骨頂は、その全自動報復装置を開発した大統領が、シルヴァーランドという名前だというところです。この名前はどう考えても、同時代に実在した共和党のウルトラ保守上院議員かつ大統領候補のバリー・ゴールドウォーターから来ている。その過激な性格には、トランプを彷彿とさせるところがある。だからもしもゴールドウォーターが大統領になっていたら、本当に全面核戦争が起こって地球は破滅したかもしれないという示唆を、小松左京は作品の中に組み入れたのだと思います。

実際今日起こっていることを見れば、コロナ禍になると人種差別は起こるし、小川さんが言ったような分断もむしろどんどんエスカレートしていく。Black Lives Matter 以後の人種対立はもちろん、今日では米ソ冷戦ならぬ米中冷戦の時代だとも言われる。そう考えると、『復活の日』はとても半世紀以上前の小説とは思えません。

差別のメタファーとしての病

 新歴史主義批評家スティーヴン・グリーンブラットの有名な論文に「Invisible Bullet(見えない弾丸)」というものがあります。

アメリカの植民地時代には、天然痘でインディアンの部族がまるまる死滅したということがありました。エリザベス朝の科学者で占星術師でもあり、時にペテン師とか無神論者とすら呼ばれたトマス・ハリオットは最初のアメリカ植民地報告を書いていますが、その記述によれば、インディアンの部族がそのように滅亡したというのは、神の摂理によるものだと言うのです。つまり白人の植民者こそが選民、つまり神に選ばれた民なのであって、そのために神がインディアンに手を下してくださったのだという典型的なキリスト教のレトリックを使う。その時にインディアンたちに武器が使われた。

その武器こそが天然痘で、それが見えない銃弾としてインディアンに撃ち込まれたことにより、白人は大手を振るって北米を支配できるようになったという論理になるのですが、これなども初期の「隠喩としての病」ですね。病がコロニアリズムの論理に都合よく取り込まれてしまっている。

先ほど小川さんが言及してくださった拙著で1章を割いているコットン・マザーは17~18世紀のはじめまで活躍するマサチューセッツ植民地最大のピューリタン神学者ですが、彼も似たようなことを考えていました。ただし彼の場合は、天然痘の接種をしてるんです。18世紀末にジェンナーの種痘が開発されるはるか以前の話です。

ところが、種痘の技術は実はマザーの家にいた黒人奴隷から教えてもらったんですね。しかし、コットン・マザーは、奴隷から教わったアフリカ系の民間療法だなどとはオクビにも出さず、いかにも自分が発明したかのようにふるまった。

一方では天然痘で異民族や部族が滅亡すると、それは神の思し召しだということになるし、その天然痘を撲滅する種痘の技術を異民族から教わると、その異民族はいなかったことにされてしまう。そういう形で、どちらに転んでも病というのは人種差別をはじめとする様々な差別意識と無縁ではないということです。

文学は「分断」を超えられるか?

小倉 確かに病の文学というのは社会の分断、あるいは人間の卑劣な側面とか、いろいろな意味でネガティブな面を浮き彫りにするのですが、小川さんもバナードさんも言っていたように、他方ではそれに抵抗するための連帯というテーマも非常に浮き彫りになる。

典型はカミュの『ペスト』ですが、あの作品の中では既存の制度、教会とか病院とか行政とか、そうしたものは本当に上手く対応できない。今のコロナと一緒です。でも、そうした中でリウーを中心に個人同士の連帯が高らかに謳われる。それがおそらくカミュの『ペスト』の本筋だと思うのです。

カミュの『ペスト』のラストシーンは、ある意味、非常に象徴的で、ペストの流行が急に止むわけです。しかしリウーは「これで世の中からペストが消えたわけではない。ペストは決して死なない。どこかに潜んでいて、またやって来る」と言って終わります。

ですから単にペストという個別の感染症だけではなくて、今回のコロナもそうかもしれませんが、戦争やテロ、あるいは日本だったら大震災といった、社会の秩序や安定を脅かすような、広い意味でのカタストロフィというものはいつ起こるか分からない。そうしたものの1つの寓意、あるいは比喩として感染症というのは文学の中でも非常にうまく機能してきたし、残念ながらこれからも機能し続けるのかなという気はいたします。

小川 今、小倉さんがおっしゃったことはすごく大事で、やはり感染症パンデミックの中で人間ができること、例えば悪に立ち向かうといった具体的なドラマは、文学が緻密に描ける部分なんだろうと思います。先ほどバナードさんが触れられたジョン・キーツ自身、確かに記号化される詩人で、どちらかというと美しいものとして語られてしまうのですが、彼自身の強さも、たぶんリウーの戦いとすごく重なるのです。

日本でも訳されたキーツの手紙は彼の強さの象徴でもあると思うのです。実際読んでいくと、彼は一切ファニー・ブローンに弱みを見せていない。ファニーに気をつかって、「僕が最後に書いた本がそちらに届くだろう」とか、「君が元気でいることが僕の喜びである」とか書いている。

キーツが、不確実なものや未解決のものを受容する能力とした「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が一人歩きしてしまって、薄っぺらくなっていることを懸念していますが、本当のネガティブ・ケイパビリティは実践した人にしか分からないと思うのです。つまり彼自身が病を患って、究極の自己隔離を実践するような人だったから、そういう言葉が出てくるんだと。

カミュも生涯結核を患っていたのですよね。当事者研究というのが今はやっていますが、ある意味文学こそが究極の当事者研究なのではと最近はすごく思っています。

バナード 感染症の文学を読むと、病気(イルネス)だけではなくて、イデオロギーも感染するんだということに気づきます。そしてこれは実は不可分の問題ではないかと思うのです。例えばハンセン病では、ハンセン病にまつわる誤解や差別がテクストを通じてよく見えてくるのですが、ハンセン病に関する誤解や差別も病気と同様に感染していくわけです。

この2つの「感染」の相互性は例えばゾンビの小説にも読み取れます。ゾンビというのは、もともとハイチなどにおける奴隷の隠喩として使われる作品がかなりありましたが、次第に感染症の隠喩へと変わってくる。この経緯は非常に興味深い。こういった植民地時代の奴隷制度への抵抗が含意されているゾンビ、つまり病気(イルネス)の象徴でもイデオロギーの象徴でもあるゾンビ像が、今後もっと追究すべきテーマの1つと考えています。

 今日は様々な感染症文学の話を伺えました。先ほど小倉さんが言ったように、コロナの時代の文学作品が出始めているようですが、たしかに、しばらく時間がたてば、この新たな疫病にふさわしい新しい文学の時代が拓かれるのではないでしょうか。

病というのはこれまでも、これからも何らかの形で文学作品を発展させる要素ではないかとも思います。本日は有り難うございました。

(2020年9月24日、オンラインにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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