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【特集:歴史にみる感染症】
長与専斎とコレラ流行予防

2020/11/05

  • 小島 和貴(こじま かずたか)

    桃山学院大学総合研究所所長、同法学部教授・塾員

「健康保護」への注目

第15代将軍徳川慶喜(1837~1913)の大政奉還から王政復古、そして明治新政府の発足といった一連の流れの中で、日本の国家建設のためのモデルは西洋とすることが定着していく。医療・衛生領域の活動も例にもれず、西洋化が図られる。そこで明治4年の岩倉遣外使節団への随行が決定した長与専斎(ながよせんさい)(1838~1902)のミッションも、西洋の医学教育制度の調査であった。

横浜より出発した専斎はその年の12月にはアメリカ合衆国に上陸し、ここで見るもの、聞くことが新鮮で、日本と西洋のあまりの違いに驚いた。ホテルでエレベーターを体験すると、「あら肝を抜かれたる心地」がしたことをのちに書き記すほどであった。

合衆国での教育機関や病院の視察を終えた専斎は、ロンドン、パリを経てベルリンへと至る。同地は日本出国当時よりの目的地であり、医学教育制度の理解を深めようとする際には関心を寄せる場所であった。専斎は同地において、かつて幕末より遊学した長崎でポンペをはじめとするオランダ人医師より学んだ光景が眼前に開けるのを見て感激する。さらにベルリンでは、医学教育制度への理解を単に深めただけでなく、政府の進める「健康保護」に関心をもつきっかけを得ることもできた。

専斎が注目したのは、ゲズンドハイツプフレーゲ(Gesundheitspflege)、ゲズンドハイツヴェーセン(Gesundheitswesen)、オッフェントリヘヒギヘーネ(öffentlicheHygiene)といった言葉で示される「健康保護」への取り組みであった。またそれまでの調査で耳に残ったヘルス(Health)やサニタリー(Sanitary)も、当初は理解できずにいたが、ベルリンでの滞在以降、それらと同様の効果をもたらすものと理解する。専斎は西洋で具体化されているこれらの行政活動を「国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織」を包容し、地方行政と警察行政と連携しながら、医学等学術を「政務的」に運用するための取り組みであると心得た。西洋では政府が住民の「健康保護」に直接関わるための仕組みがあったのである。

「東洋にはなおその名称さえもなく全く創新の事業」であるとして、これを日本への「土産」とする。専斎は、日本がモデルとする西洋では、住民の健康への政府の関わりが認められていることからすれば、日本にもそうした取り組みがあってしかるべき、としたのであった。

「医制」の制定

岩倉遣外使節団の調査より帰国すると、専斎には文部省医務局長の椅子が用意され、西洋に範をとった「健康保護」のための基本法の制定に取り掛かる。その結果制定されたのが明治7年の「医制」である。

「医制」を制定するにあたり、西洋の「ゲズンドハイツプフレーゲ」等の取り組みを表現するための言葉を思案した専斎は、これを「衛生」とした。ここに至る過程において、「健康」や「保健」といった言葉も当初は思い浮かべたが、中国の古典の1つ『荘子』に収められる庚桑楚との対話に、「衛生」とあるのを思い出し、自らこの言葉の含みを吟味し、本来の意味と同じではないものの、「字面高雅」、「呼び声もあしからず」といって気に入り、これを選択したのである。専斎は西洋で注目した「健康保護」を「衛生」としたのであった。

「医制」の制定を受けて、地方官と共に中央政府の意向をもって「健康保護」を進めるといった方針が示された。専斎は「医制」の中でこの事業のための政府の権能を確認し、これを行使することで、自身の構想の具体化を目指すこととなった。

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