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【特集:歴史にみる感染症】
流動の国日本・略史── 市場・人口・感染症

2020/11/05

  • 友部 謙一(ともべ けんいち)

    一橋大学大学院経済学研究科教授・塾員

Proposal of BCG / Tuberculin reaction as a precautionary measure against second wave of Covid-19:from analysis of statistics, Japan Policy and Kawasaki Diseaseなる結核と新型コロナとの関係を疫学的に確証した秀逸な報告書が本稿寄稿の直接のきっかけである。著者の林原誠氏(塾員)は2000年に塾経済学部の小生のゼミ(当時)を卒業後、2014年にインペリアルカレッジ・ロンドンで修士(Msc Finance)を取得し、現在香港を基点にシンクタンクを主宰している。結核と日本人の関係をみると、近代だけでも1930年代後半に結核死亡率が「帯患帰郷」により再上昇するというOECD諸国のなかでも稀有な経験をもち(防災科研 花島誠人氏・塾員)、そこから都市の工場と農村の労働というモチーフで多くの文学作品がうまれた。

しかし、同時に「待てよ。これは速水さんの西条村(岐阜)の都市奉公帰りの女子の死亡パターンと同じじゃないか」という記憶印象が重なった。速水融(あきら)氏は惜しくも昨冬他界されたが、アジア歴史人口学のパイオニアとしての研究成果はいまだ健在だ。そこで、少なくとも結核と労働移動は江戸時代まで遡れそうである。他の日本の代表的な感染症である天然痘と梅毒をいれると、市場と感染症の関係はさらに古い時代へと向かえそうだ。これが本稿の動機付けとなった。また、以下の議論は一橋大学経済学部で開講されている、学部新入生を対象とした「経済史入門」の講義内容とも重なる。現今の大学講義を読まれ、とくに年配の方々が当時を思いおこされれば幸いである。それでは、古代から始めよう。

古代日本:市場原理の認識

まず講義の冒頭は「資本主義は近代に始まり、ついに人間の別名である労働や自然の一部である土地が市場取引の対象となった」というステレオタイプは一旦お預けしよう、というフレーズから始めている。それが間違いだからというのではない、万物が流動する中で築きあげられた市場・市場経済と人間の相互連携の関係は紋切り型の因果言説ではとらえきれないからだ。市場とは人類の存在とともに古く、需給調整(価格形成)・秩序形成のために、人・財・情報を移動させる仕組みである。概ね移動の発動は権力や制度が担い、人や諸財の移動とともに市場が機能しはじめる。そして、それらの移動とともに、ウイルス・細菌・寄生虫も運び込まれることになる。これこそ経済学が教えるべき数少ない経験則にちがいない。権力や国家はこの市場原理を取り込み、ときにそれと距離を置きながら時代を形作ってきた。古墳時代以降それは明確だ。『魏志倭人伝』は「倭国では、国々市あり、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ」(大倭をヤマイと読んで、邪馬国とも解釈できる)と伝える。呼応する如く、アジア史家岡田英弘氏の「(交易の場を)柵や城壁で囲みながら市がつくられ、その内外という境界標に道祖神を祭り、邪霊を阻止し、入場料=租(税の起源)を徴収し、やがて古代都市国家へ発展した」という解釈は魅力的だ。

古墳に継ぐ巨大建造物は古代の寺社である。奈良時代に国府に建造された寺社の伽藍・境内の多くは広大だ。おそらく、市の場(官製)であり、やがて発生した感染症(『日本書紀』以降に掲載)による多数の犠牲者の弔いの場でもあったのだろう。また、寺院の影響力はすでに市場経済全域へ及んでもいた。藤原氏に縁深い興福寺・東大寺に由来する、寺升(てらます)を通じた度量衡(市場インフラ)統制への影響は長く江戸時代にまで至る(水鳥川和夫氏)。目を労働移動へ転じれば、東大寺造営のための8世紀工房の労働市場は活況であったが、水銀中毒という労働災害をももたらした。同じ時期、市での飢人の増大という市場の負の遺産も増えている。時代は確定できないが、琉球の『遺老説伝』によれば、人身売買まがいの労働市場が市場周辺に展開するが、そこでの労働評価がやがて労働市場での賃金(正当性)基準になっていく。『日本霊異記』には、9世紀の世帯で、賃労働の雇用と家族労働の就業のどちらが合理的かの問題が浮上してくる。まさに、市場の導入・操作・帰結を交えた人々の悪戦苦闘の痕跡に他ならない。

こうした古代日本の市場景色の集大成とでもいうべき中央官人・菅原道真がついに九世紀に登場する。『菅家文草』(900年刊)に収められた「寒早、十首」には、官人・道真の市場認識が明確に下敷きされている。「旱天平價賤」(日照りが続けば塩価は暴落する)は、塩の生産(供給)が増えれば、塩の(標準)価格は低落するという市場原理の端的な理解を示している。中央官人に求められる官僚教養であり、地方で問題が起こった場合の統治技術であったのだろう。このように、中央でも地方でも市場原理が展開する場所(市場や都城)では、人や財の移動は頻繁だ。漁師の世界も例外でなかった。『続日本紀』によると天平年間に玄界灘に出た釣り船が天然痘に罹患し、帰港して全国にその疫病を広めたという(鈴木晃仁氏談)。海も市場原理(その大義により就航が自由となる)が通用する原風景なのかもしれない。

中世日本:生産要素市場と人口変動

時代が進み、中世日本の経済構造の中核にあるのは、荘園である。そして、寄進地系荘園の主体が寺社となる。市場・海・荘園と来たら網野善彦氏の登場である。網野氏の解釈とは異なるが、ここではあくまでも、市場原理があるから、人々は自由に歩き、それに伴い財や情報も移動し、感染症も拡大するとみる。荘園の印象はその対極であるようにも見えるが、その仕組みは、内部に荘所(農具などを置く経営事務所)・未墾地・既墾地があるだけで、専属の農民はなく、耕作は周辺農民の賃粗(小作)にゆだねられていた(棚橋光男氏)。やがて、農家への委託経営と荘園領主が田遣を派遣し、周辺農民を直接賃雇用した大規模農業経営が併存した。その比率はほぼ半々だという。委託される農家の農民も賃労働の農民も元々は口分田(土地)をもつ律令農民であった(竹内理三氏)。

つまり、口分田を受けた小規模農家が、たえず変動する生産要素の労働との不均衡に直面し、租庸調が支払えず、大規模農家に寄口したわけである。やがて、公営田が減少し、私営田が増加するようになり、全国的には国衙(こくが)と荘園の比率に大きく影響するようになった(永原慶二氏)。よくみると、荘園という仕組みは、律令田制において固定されていた口分田を一生産要素として市場化させ、これに別な生産要素である労働を変動要因として一体化させる制度だったことになる。つまり、土地と労働を生産要素市場として展開させるうえで合理的な仕掛けだったことになる。裏を返せば、こうした仕掛けが必要になるほど、口分田から逃げ出す農民がいかに多かったかを物語る。網野氏が漂泊民と一括した移動集団には、職能民だけでなく、逃散した農民も多かったに違いない。中世の人口史料は貴重であるが、国指定文化財の「周防国玖珂郡玖珂郷延喜八(908)年戸籍」(滋賀石山寺紙背文書)をみると、変化のない世帯もあり不自然な点もあるが、やはり成年男子や若者層の記載はたいへん少なかった(渡辺晃宏氏)。

荘園制が進んでいくと、その仕掛けの帰結として、地方の土豪である「名」主を通じて荘園制に組み込まれたり、直営私田経営に吸収されたりしながら、漂流民の農村部への定着も始まっていった。南北朝という時代が、ちょうど荘園領主の旧勢力と地方の「名」主経営の新勢力が拮抗する分水嶺だったのだろう。中世日本人口史の佳作であるJapan’s Medieval Population(2006)の著者W・W・ファリス氏の推計にもあるように、13世紀後半からおそらく17世紀初めにかけて日本の総人口はほぼ同じ比率(年率0.2%程度)で増加していたと思われる。その主役は権力に捕捉され漂泊民から定着耕作民へ移行した人口増加と定着農耕民の世帯形成による出生力の上昇だと思われる。前者の傾向は少数ながら明治維新をまたいでも継続していた。正確な統計ではないが、福島白河関以北(南から北への移動が主体) の全域調査とされる「蒲生領内調査」(1593)によると、「身上不確者」と把握される人口比率は高くとも10%以下(しかし人口移動が双方向で起こる中部日本ではさらに高いと予想)、さらにその約280年後に甲斐国全域で調査した「甲斐国現在人別調」(1879)では、その比率は0.5%前後に低下していた。数字的には約600年間の比較的穏やかな定着過程を示している。流浪の民の下人化の具体的な過程の実証は難しいが、近世前期の奥能登・時国(ときくに)家では流浪民が乞食人として寄口してから、「雇い」「子分」となって譜代下人となるまでに約30年の歳月を必要としていたことがわかっている(関口博巨氏)。

この陸地での定着過程以外に忘れてはならないのが、海からの定着化である。塾経済学部にも縁の深い『漂海民』の著者羽原又吉は、大著『日本漁業経済史』(全4巻)の多くを費やして、家船(えぶね)文化の担い手としての百姓(漁民)の存在を指摘した。黒潮奔流の源は、中国江南地方、フィリピンやインドネシアにたどり着く。瀬戸内海の家船が1980年代になっても活動していたのは紛れもない事実である。そこにつながる彼らの壮絶な歴史が各時代の日本の総人口に影響していなかったと仮定することは歴史家の責任放棄ともいえる。温帯マラリア(三日熱マラリア)に代表される感染症の発現・隆盛もその証拠と考えるべきだ。日本では気候温暖化と海進も進み、柳田國男も闇之森八幡社(名古屋市)の民俗事例で紹介したように、河川下流域の薄暗がりの森には「池沼」ができ、マラリア媒介蚊(ハマダラ蚊)の繁殖につながった可能性は高い。11世紀の『御堂関白記』や『源氏物語』で加持祈祷の対象となった疫病こそ、瘧=おこり=マラリアであっただろうし、その時代の京都では本来急性感染症であった瘧が風土病として定着していた可能性すら指摘されている(牧純氏他)。

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