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【特集:歴史にみる感染症】
流動の国日本・略史── 市場・人口・感染症

2020/11/05

近世日本:天下人と市場経済

さて、こうした中世日本の収束過程を市場経済の整備に連結させたのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の天下人に他ならない。信長の仕事は市場インフラの整備に尽きる。なによりも藤原氏以来の度量衡の基準(興福寺升起源の標準升が広範囲に展開)に手を加えなかったことだ。貫高制から石高制への移行がなぜ生じたのか、いまだに明確な答えはないが、標準升という体積(度量衡)基準の全国的な広がりがなければ(比重指標を使えば、米や商品の重量による課税や取り引きにも容易に対応できる)、そうした決断はなかったに違いない。それに楽市楽座という制度改革により、民の幸福の源泉に市場を置き、その広がりで天下を治めようとした。秀吉は何といっても太閤検地による土地耕作制度の全国規模の整備である。定着農耕民が増し、それぞれが親方=名主経営から独立してくると耕作の基準は所有よりも、誰がその一片の土地を耕作しているのかという耕作する事実(沼田誠氏)に基づくことになる。有名な一節「山は奥、海は艪櫂(ろかい)の続くまで」の内容は、現代経済学でいうR・コースの定理を実際の耕作制度変革に適用した時の新法執行過程に見事に合致している。最後に家康であるが、市場経済の血流たる貨幣制度の確立が最大の貢献である。最後の皇朝十二銭である乾元大宝以降、国家大権である鋳造権を放棄したかのように、中国銭(宋銭・明銭)に貨幣を委ねてきた日本であったが、家康に至ってようやく貨幣鋳造を再開し、ついに三貨体制の確立につながった。

これら天下人の仕事は、市場の命脈である生産要素の流動性を制度化することにより全国的に安定化させることであった。そして、その後の幕藩体制は技術革新の波を各個別の農家に持ち込むことで、そこを工業生産の基点に仕上げ、懸案の絹製品の輸入代替化をも達成したのである。それに伴い農村工業のための資本市場も着実に成長し、長州藩では18~19世紀を通じて利子率の長期的かつ安定的な低下傾向が認められた(田中美帆氏)。そして、その農村工業化の波は西日本から東北日本へと力強く進んでいった。幕府の実質貨幣残高が近代経済成長(MEG)につながる上昇傾向をもち始めるのは、天明の飢饉(1780年代)以降である(明石茂生氏)。

農家の独立、本百姓化は時代とともに進んだ。17世紀~18世紀初頭の人口増加率も年率で0.4~0.5%に至った。世帯形成の人口増加への貢献は絶大だ。そして、世帯が生産・消費を含めた生活の基本単位となった。農村社会学者の有賀喜左衛門氏はその農家世帯を「生活保障の最後の堡塁」と位置づけ、市場や市場経済で代替できない組織・社会構造であると考えたが、その直系家族形成では、傍系親族を輩出することで周辺の労働市場を賑わせた。幕藩体制も世帯を社会改革の観察単位と決め、種々の制度化を行った。

しかし、同時に新たに発生したリスクが世帯を基点とする感染症の蔓延であった。とりわけ、梅毒など性感染症の伝播は、明らかに世帯構成員の行動が世帯にもたらす災いであった。世帯の独立性の上昇と市場経済の流通の加速化により、その伝播速度は一挙に高まり、まず三都をほぼ飲み込み、周辺地域へも飛び火した。その勢いは特効薬ペニシリンの流布が達成された戦後まで続いた。それまで、民衆レベルでは、漢方薬や蘭方創薬による治療が模索されていた。のちに特効薬と期待されたサルバルサンと同じ砒素化合薬が幕末の適塾で創薬されていたこともわかった(拙稿参考文献)。民衆はこうしたリスクへ果敢に立ち向かった。その意味ではアジアの知識体系化の中心としての役割は十分に果たしていたが、因果関係が理路整然と整理された西洋の知識体系とはいまだ一線を画していた。

近代日本:生活水準との格闘

江戸時代から戦前期までの百姓の家長たちは、何と闘ってきたのだろうか。農家の家計に生活水準を絡ませた研究をすすめていくと自ずとうかびあがってくる問いである。明治の島崎藤村は自身の作品『家』のなかで、没落する百姓の家を旧家の大家族主義、家父長的態度、家系、そして遺伝(梅毒という慢性感染症に連なる)というまさに百姓家の固有の問題と絡ませて、文学として丁寧に葬った。百姓の家長が闘ってきた相手は、近代文学で論じきれる負の連鎖としてのこうした問題群だけではなく、生命・生産・生活という正の連鎖をまもりぬくという使命だ。

戦前までの百姓の家長は、早速村の集落間で取り引きされる頻繁な交換経済の渦中に投げ込まれた。村請制以降の行政村落(地租改正後は世帯決定の独立性は強まる)は、複数の集落から形成されるのが普通であった。出自や氏姓を同じくするような同質的な農家が集合してひとつの集落をつくり、そのなかの日常生活は物々交換で経営された。しかし、集落を越えて調整が必要な財やサービスは交換経済(労働組織の結(ゆい)も賄い提供による交換経済)により獲得された(宮本常一・中村吉治氏)。土地、労働や資本という生産要素こそ、こうした交換経済で取り引きされる中心的な財・サービスであった。江戸時代ではそれを村請制のもとに村が管理したのである(明治以降は小作制度などが導入された)。

そのなかで家長は日常茶飯の交換経済のなかで発生する様々な財やサービスの平均価格を知る必要に迫られた。生産要素に関するかぎり、集落間の交換(貨幣が十分に供給される時は貨幣による)取引の頻度は高かったはずだ。こうした価格の発生と進化は、自らの労働生産性や労働苦痛の目安のみならず、家族員の労働生産性とその生活養育費が均衡しているのかをふと考える機会を家長に与えただろう。さらに、農村工業を家内に導入する判断も同じ論理だ。そのうちに、良い家長とそうでない者が区別され、集落や村でもその噂も広まり、紆余曲折をへて、その家の歴史をつくった。

ところで、家長に残されているもう1つの大切な役目は、家族員の生命をまもることである。拡大する市場を活用するうえで、都市部への出稼ぎは必要不可欠だ。世帯に残ったとしても、ままならぬ生活水準では、都市部での結核や梅毒という慢性感染症の罹患リスクを考えても、出稼ぎの可否を決める必要があった。「まずは出稼ぎを」という軽率な判断こそ世間知らずの家長が行うことだという認識ぐらいは、都市化を経験してきた村であれば誰もが知っている。誰をどう育て、いつ、どこへ、出稼ぎに出すかを問える力量を備えた家長の判断(実際には親族との協議の末)が百姓の家の命運を決めたといってもよい。長野県下伊那地方では農家の養鯉・養蚕業への副業従事が児童の体格成長に大きく影響していた(拙稿参照)。さらに結核が外部リスクとして百姓家長の危機管理の対象となったのは遅くとも天明の飢饉以降と考えるべきで、そうなると冒頭の林原論文の含意は歴史的にもたいへん深いのである。

〈参考文献〉
速水融『近世濃尾地方の人口・経済・社会』創文社、1992年
友部謙一「近世社会の人口戦略」秋田他編『人口と健康の世界史』(ミネルヴァ世界史第8巻)ミネルヴァ書房、2020年、63~82頁
同「近世・近代日本の花柳病(梅毒)・死流産・出生力の因果関係をめぐって──慶應義塾、その可能性の中心に」『近代日本研究』34巻、慶應義塾福澤研究センター、2017年、1~38頁
同「体位の変動と人口・経済」社会経済史学会編『社会経済史学事典』丸善、2020年出版予定

*本稿は故速水融先生のご研究や期待された水準には遠く及ばない内容となってしまったが、2019年12月4日に逝去された恩師の墓前に謹んで供えたい。また、コロナ禍での文献渉猟となったが、指定国立大学法人一橋大学附属図書館の多大な協力に感謝する。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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