【特集:歴史にみる感染症】
台湾医学衛生の父、高木友枝の伝染病対策
2020/11/05
はじめに
1895(明治28)年4月17日に日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清国側全権李鴻章が調印した「日清講和条約(下関条約)」により、日本が台湾を領有することになった。日本にとって、台湾は最初の植民地である。しかし、初期の植民地経営は決して順風満帆ではなかった。なぜなら、台湾住民の激しい武力抵抗に遭遇しただけでなく、厳しい衛生状態とそれに伴う伝染病、地方病の被害にも対応せざるをえなかったためである。
事実、1895年に台湾に上陸した日本軍はいたるところでマラリアの惨害を受けた。日本が台湾を領有してから大正初期まで、台湾で最も多くの死亡者を出した病気はマラリアで、毎年およそ1万人の死者が出ていた。台湾総督府にとって、いかにして台湾の衛生状態を改善し、伝染病と地方病を退治するかは喫緊の課題となった。その中で、重要な役割を果たしたのは、のちに台湾医学衛生の父と称された高木友枝(たかぎともえ)である。
本稿では、医学衛生理念、医療衛生機構の整備、伝染病・地方病の予防と退治という3つの側面から、台湾の医学衛生における高木友枝の役割を考察してみたい。
北里柴三郎、後藤新平との出会い
高木友枝は1858(安政5)年に奥州本多越中守領内松小屋村(現在の福島県いわき市)に9人兄弟の次男として生まれた。医学を勉強するため、上京し、緒方惟準(おがたこれよし)の適塾(東京適塾、明治5年-11年、神田駿河台に存在)、警視医学校で学んだ後、大学東校に編入した。そこではベルツやスクリバなどお雇いドイツ人医学教師よりドイツ語で教えを受けた。1885年に東京大学医学部を卒業した後、福井県立病院長に就任し、のち鹿児島病院長になった。1892年に北里柴三郎が福澤諭吉の支援によって伝染病研究所(以下「伝研」)を開設した。翌年、北里を師と仰ぐ高木は病院長の職を辞し、伝研の助手として勤務することになった。1894年に香港でペストが発生し、高木の提案により、日本政府は北里と東大医学部助手の青山胤通(たねみち)などを香港に派遣した。北里はそこでペスト菌を発見したが、青山はペストにかかってしまった。福澤諭吉が北里まで罹患するのを懸念したため、高木が香港に赴き、北里と交代して、青山の看病を行った。
帰国後、高木は伝研の治療部長に就任し、1896年に内務省技官(上司は後藤新平)と血清薬院長を兼務した。日清戦争終結後、高木は後藤新平の片腕として、広島・似島の臨時陸軍検疫所でコレラ罹患将兵の隔離、収容と治療を担当した。その検疫成果により、後藤新平は当時陸軍次官であった児玉源太郎に高く評価され、内務省衛生局長に抜擢された。一方、高木は1897年より2年間、ドイツ・ベルリンに留学し、欧州各国の衛生制度を調査、研究した。帰国後、伝研に復帰するが、1900年に内務省衛生局防疫課長に任命され、阪神地区のペスト撲滅に本領を発揮した。
高木がのちに台湾で活躍できたのは伝研とドイツで学んだ細菌学の知識があったためである。彼が総督府衛生課長就任後に行った様々な仕事は、細菌学説が台湾の医学の発展の主軸になっていたことを示している。
1898年に児玉源太郎は第4代台湾総督に就任すると、後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命した。そして1902年に後藤は高木を台湾に呼び寄せた。
高木友枝は、1902年4月に台湾に赴任し、1929(昭和4)年8月に帰国するまで27年余り台湾に滞在した。そのうち、1902年から1919年にかけて、高木は台湾総督府技師、同医院長、同医学校校長、日本赤十字台湾支部長、総督府臨時防疫課長、同衛生課長、総督府研究所所長などを歴任し、台湾の医学と衛生の発展に大きな役割を果たした。高木自身もこの18年間を「最も活動の時期に属せる」と総括している。
医学衛生理念
周知のとおり、日本は明治維新以降、ドイツ医学を手本として、西洋の基準を導入し、かつ自国の必要に応じた医学体系を築いた。その際、日本はドイツの医学制度だけでなく、社会衛生、種族衛生、国家医学といった理念も導入した。それらの理念は、日本の植民地医学の思想的要素を構成した。日本は台湾を領有してから、公共衛生の理念を台湾にも移植しようとした。
高木友枝は台湾に赴任する前に、すでに台湾の衛生問題に関心を有していた。1896年に彼は『大日本私立衛生会雑誌』に「新領地阿片問題」という論文を発表し、「民政、海陸軍諸局と同一権力を有する衛生局を設け、才学兼備の医師を以て之を長官となし、大いに衛生行政の拡張を図らざる可からず」と唱えている。
1910年4月、高木は『臺灣の衛生状態』という本の序文において、次のように述べている。
列国ノ植民地ヲ経営スルヤ先ツ宗教ヲ宣布シテ斯民ヲ文明ノ域ニ誘致スルコトヲ勉メ帝国ノ植民地ヲ統治スルヤ宗教ニ換ルニ医術ヲ以テシ斯民ヲシテ文明ノ徳澤ヲ目睹親験セシム。
西洋列強と異なり、日本は台湾において宗教の代わりに医術の普及に重点をおいていたのである。
2020年11月号
【特集:歴史にみる感染症】
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段 瑞聡(だん ずいそう)
慶應義塾大学商学部教授