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【特集:歴史にみる感染症】
台湾医学衛生の父、高木友枝の伝染病対策

2020/11/05

伝染病・地方病の予防と退治

1896年の10月に、台湾総督府は「伝染病予防規則」を発布し、コレラ、ペスト、赤痢、天然痘、発疹チフス、腸チフス、ジフテリア、猩紅熱を伝染病と指定した。そのほかに、マラリア、脚気などの地方病も多発していた。そのうち、最も猛威を振るったのはペストとマラリアである。

(1)ペストの根絶

台湾総督府は1899年10月に台湾地方病及伝染病調査委員会を設置し、伝染病と地方病の予防と撲滅、およびアヘン吸飲者に対する治療などに関する調査研究を進めた。そのうち、ペストの防遏(ぼうあつ)は台湾における衛生事業の第1歩だと言われている。高木は1902年8月に同委員会委員に、そして1904年7月に同幹事に任命された。

高木によると、赴任当初、新庁舎の空き地には、毎朝100匹余りのペスト斃鼠(へいそ)が放置され、まさに「惨憺たる光景」であった。高木が住んでいた官舎の周辺では、毎年ペスト患者が発生した。とりわけ1904年にペストによる患者は4,500人に上り、そのうち死者数は3,374人に達した。

台湾におけるペスト流行の原因として、高木は以下6点を挙げている。①1896年に台湾でペストが発生したが、当時土匪(どひ)が各地で跋扈していたため、警察は衛生のことを考える余裕がなかった。②台湾人の家屋と市街は極めて不潔で、狭隘暗黒であるため、ペストの流行に適していた。③台湾人はペストが伝染病であることを知らず、神仏の祟りと考えていた。④台湾人だけでなく、台湾にいた日本人の多くも、ペストに関する知識が欠如していた。⑤当局官吏または警察官は、台湾人との間に言葉が通じないため、往々にして双方に誤解が生じ、防疫措置に支障をきたした。⑥当局官吏および警察官吏の多くは、ペスト予防の経験を有していなかった、ことである。

1903年10月に総督府民政部警察本署において臨時防疫課を設けることになり、高木はその課長に任命された。高木が打ち出した対応策は、ペストが発生しやすい旧式家屋を取り壊すことと鼠の駆除であった。1912年までに合計4,876戸の家屋が取り壊され、1919年8月までに4192万3644匹の鼠を拿捕した。その結果、ついにペスト病毒を根絶することができた。そのため、1920年6月12日に高木は大正天皇より旭日重光章を授与されている。

ペストの根絶によって、台湾の衛生環境が改善され、台湾社会の近代化も促進された。それによって、日本が台湾における植民地支配の信用が確立されたと言われている。

(2)マラリア予防

もともと台湾人はマラリアを「寒熱症」と称し、原住民はそれを「スソリサン」と呼び、退治しえないものとみなしてきた。

高木によると当時、苗栗-台中縦貫鉄道工事が行われたが、マラリアの影響で3度にわたって、技師以下の従業員全員が罹患して作業不能になったことがあった。ある兵営では、一大隊のうち、銃を持って立っている者はわずか8名しかいないというような状況もあった。

1901年9月に陸軍省医務局長小池正直が台湾を視察した際、防蚊法を提案し、直ちに実施され、軍隊の中でかなり功を奏した。しかし、工場などでも同様の方法を試みたが、うまくいかなかった。なぜなら、日本の軍隊は秩序整然、規律厳然であったが、当時の台湾住民には軍隊同然の生活を強いることができなかったためである。

そのような状況に鑑み、1910年に高木は体系的マラリア防遏策の実施を主張し、上申書を提出した。同年より台北庁北投で、翌年よりは阿猴庁、鳳山庁など数カ所において試験的予防法を実施した。その結果を受けて、1913年4月に「マラリア防遏規則」および同「施行規則」が制定された。同規則の要点として、1つは伝染の媒介をなすアノフェレス蚊の撲滅であり、もう1つはマラリア患者または病虫保持者が完治するまで治療することである。その方法として、主要のマラリア流行地をマラリア防遏地域と指定し、当該地域内の住民に対して、検診、検血を行い、原虫保有者に対して、無料で服薬を強制する。同時に、池沼、貯水池の埋め立て、排水溝の設置、草むらの伐採などを行った。

マラリア防遏地域にはマラリア防遏所が設置された。総督府が医官を派遣したり、講習会を開催したりして、予防に関わる知識を伝授した。その結果、マラリア死亡率は1915年をピークにその後減少したといわれている。しかし、日本の植民地統治時期にマラリアはとうとう撲滅できず、ようやく撲滅されたのは1965年のことである。それはマラリアの根絶がいかに難しかったかを物語っている。

今日、台湾では日本の植民地行政において医療衛生面の業績が最も優れていると評価されている。事実、1920年以降、「健康」と「衛生」が台湾社会の慣用語になった。1921年の時点で、台湾の出生率は人口1000人に対し43.2人に達した。一方、1923年の時点で、死亡率は21.6人で、1906年以降最も低い水準に達した。それはいうまでもなく台湾における医療衛生環境の改善と密接に関連しており、高木友枝らのたゆまない努力の結果である。それゆえ、高木の門下生で、台湾最初の医学博士杜聡明は、高木友枝が台湾の「衛生総督」と「医学衛生の父」であると高く評価している。

高木友枝胸像(台湾大学医学人文博物館)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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