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【特集:歴史にみる感染症】
台湾医学衛生の父、高木友枝の伝染病対策

2020/11/05

医療衛生機構の整備

(1)総督府医学校の役割

1896(明治29)年4月より台湾では民政が敷かれ、当時内務省衛生局長であった後藤新平が台湾総督府衛生顧問に嘱託された。後藤の提案により、1897年3月に台北医院内に医師養成所を設け、日本語が分かる台湾人子弟数十名を集め、普通学と医学の初歩を教授した。

1899年3月31日に総督府医学校官制が公布され、4月1日に台北医院長山口秀高が校長を兼任することになった。

1902年3月に高木は医学校第2代校長に任命され、1915年3月に退任するまで13年間在任した。当時台湾においては、近代的医療衛生の概念がなく、医師の待遇もよくなく、卒業に5年間もかかるため、生徒の募集はかなり困難であった。そこで、高木は自ら台中や台南、台東などに出向き、入学試験を行った。その結果、1905年以降、医学校を希望する青年が徐々に増え、競争も激しくなった。

医学校を運営するにあたって、高木は主に以下3つの面で尽力した。第1、当時東京帝国大学の卒業生が植民地に赴任したがらない傾向があったため、京都帝国大学医学部などの優秀な卒業生を教員として招聘した。第2、医学校教員に対して、博士学位を取得するべく、ドイツに3年間留学する制度を設け、優秀な人材を育てようとした。第3は、高木自らが生理衛生という講義を担当し、同時に倫理、修身についても講義した。毎年の卒業式に、高木は学生に対して必ず「医師になる前に人になれ」という訓辞を贈り、医者としてのモラルの向上を心がけていた。

高木は医学校の生徒を通じて、伝染病に対する知識の普及に努めようとした。時々通訳を伴って、講演会を開き、伝染病の怖さについて講義した。高木は、医学校があるため、生徒が卒業して医者にならなくても、流行病の怖さ、マラリアと蚊の関係、ペストと鼠の関係を一般人に知らせることができると認識していた。

当時、医学校の学生は台北医院で実習することになっていた。しかし、台北医院は、医学校から離れており、また日本人患者は台湾人学生による実習に対してあまりよい感情をもたなかった。そこで、高木は医学校校地内に日本赤十字台湾支部医院を新築し、1905年2月より、医学校の実習医院として使用することになった。

当時、国語(日本語)学校では、台湾語の使用は禁止されていた。しかし、医学校では台湾語の使用が認められた。それに、高木は学生に訓話する時、いつも父親が息子に説き聞かせているように語りかけていたため、教員と生徒に非常に尊敬されていた。

1919(大正8)年4月に医学校は「総督府医学専門学校」に改名し、台湾における医学教育は新しい段階に入った。1919年まで、医学校は台湾人医師544名を養成した。台湾人医師の多くは、独立開業し、台湾の近代的医療の主力になった。それだけでなく、多くの台湾人医師が信用組合長、州市街協議会議員、総督府評議会員などに選ばれ、台湾社会のリーダー的存在にもなっていった。

(2)総督府研究所の創設

1896年3月に総督府では製薬所を設置した。同所検査課事業の一部として、水質試験をはじめ、衛生各種の化学実験が行われた。その後、植物および農工業に関する産業上の科学的試験と医療薬品の実験も行うようになった。1901年5月に総督府専売局が新たに設置され、製薬所の事業は専売局によって担当されることになった。しかし、当時の設備は極めて粗末で、とうてい実験研究をなしうるものではなかった。また、殖産局鉱務課の鉱石分析も、医院、医学校の研究室も同じような状況であった。ガスの設備がないため、アルコールランプを用い、水道がないため、圧力のかかった水を使うことができなかった。

そのような状況を鑑み、高木は後藤新平に対して、研究所の設置を提案し、着々と準備を進めた。1906年に高木は総督府専売局検定課長を兼任することになった。専売局長中村是公の支持を得て、工場の建設費の余剰金を研究所の建築費にあてた。また、1906年春の帝国議会で1907年度より五年間の継続事業として、55万円の助成を得ることができた。

1909年4月に総督府研究所が成立し、高木が初代所長を兼任することになった。総督府研究所は所長専属、化学部と衛生部の3部からなっていた。高木によると、当初総督府の高官でさえ、研究所を厄介物視していた。1910年8月に内田嘉吉民政長官が着任してから、ようやく「此機関こそ本島文明の開拓上最も必要のもの」と認めたのである。

1915年3月に高木は医学校校長を退き、総督府研究所所長に専念するようになった。1916年12月、研究所が改組され、化学部、衛生部のほかに、醸造学部や動物学部、庶務部を設けることになった。研究所は主に①殖産および衛生上の研究調査と試験に関する事項、②酵母その他殖産的細菌材料の製造と配付、③血清その他細菌学的予防治療品の製造配付の事務を担当していた。

総督府研究所は、台湾における殖産衛生に関することを、ほとんど漏らすところなく研究し、公衆に向かって一目瞭然たる資料を提供するよう努めた。その結果、応用化学の方面でも醸造学の方面でも、熱帯衛生の方面でも、社会に大きな貢献をなした。当時、総督府研究所ではコレラやインフルエンザのワクチンを製造していたが、もしそれらを市価で販売するならば、研究所の1年以上の経費を賄うことができるほどであった。

高木は医学校と研究所の運営に尽力しただけでなく、学会運営にも力を注いだ。1902年8月に台湾医学会が設立され、高木が会長に選ばれた。同年9月に『台湾医学会雑誌』第1号が刊行され、台湾における医学研究のためのプラットホームが提供された。その『台湾医学会雑誌』は今日まで刊行され続けている。

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