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【特集:歴史にみる感染症】
長与専斎とコレラ流行予防

2020/11/05

コレラの流行

「医制」が制定された翌年、「医制」中、医学教育に関する事務は文部省に残し、伝染病予防をはじめとする「健康保護」の事務については内務省へ移管されることとなり、専斎も引き続き関わることとなった。

移管直後、「健康保護」は「第七局」で取り扱われたが、まもなく「衛生局」とその名称が改められる。かつて「医制」制定の際、「健康保護」を「衛生」と表現した専斎は、その部局の名称を「健康保護」の事務を所管するための部局であることから「衛生局」とした。そしてこの新たな部局を率いるべく、初代内務省衛生局長に就任したのが専斎である。専斎がこの職責から解放されるのが明治24年であり、実に16年以上にわたって日本の「健康保護」の陣頭指揮を執り続けたのである。こうした専斎の取り組みはのちに、「衛生局の歴史は、即ち長与専斎の歴史である」と評されるまでになる。

ところで専斎が「健康保護」の仕組みづくりに奔走する中、内務省衛生局を襲ったのがコレラの流行であった。

明治期のコレラの流行は明治10年にはじまり、以降、明治12年、15年、19年と間歇的に流行し、明治12年や19年には実に10万人以上の人命が鬼籍へと追いやられた。ドイツ「実験室医学」を牽引したコッホ(RobertKoch:1843~1910)らの貢献により、コレラはコレラ菌による伝染病であることがのちに知られるようになったが、明治10年代初めは、人がなぜコレラ患者になるのかが解明されていなかった。そのため人々は慌てふためき、コレラ患者の命を奪っているのは医者であるとの風聞から、竹やりの犠牲となる者がでたほどである。

明治10年以降のコレラの流行には、専斎をはじめ内務省衛生局の官吏は倉皇狼狽(そうこうろうばい)しながら対応に当たったが、明治12年の流行に際して「中央衛生会」と称する、医学の専門家よりなる諮問機関を設置する。諮問機関は行政組織上、スタッフ組織として整理される。専斎は、ベルリンの地で注目した「健康保護」は医学等学術を「政務的」に運用することだとする。これを実現するためには、学術上の知見に基づく政策の立案が要請される。そのため「中央衛生会」はスタッフ組織として、学術と政策を媒介することが期待されたのである。

「中央衛生会」が設置されたのは明治12年の夏であったが、さらにその年の暮れには、府県には「衛生課」、町村には「衛生委員」が設けられた。ここに内務省衛生局を頂点とした指揮命令系統としてのライン組織が形成されるに至る。

このライン組織と先の「中央衛生会」に見えるスタッフ組織が相互に作用するための準備が整ったことで、専斎が求めたように、医学等学術を政策化し、政府がそれを実施することが可能となった。

大日本私立衛生会の設立

専斎は、伝染病予防の効果を高めるため、消毒や摂生を求める内務省衛生局の意向を直接住民に伝達することが可能となる「衛生委員」の活動に期待していたが、これにとどまらず、政府の進める予防策を受容する側にいる住民にも注目していた。そこで専斎は、住民自身が「健康保護」を受け入れられるよう活動を開始する。その結果設立されたのが明治16年の大日本私立衛生会である。

大日本私立衛生会は「私立」とされているが、その設立に尽力し、実現に向けて導いたのは、専斎をはじめとする内務省の官僚や陸海軍の軍医、あるいは東京大学医学部の教授など、政府の側にあって伝染病予防策等の立案・施行にたずさわる面々であった。これに市井の医師や住民が会員として参加し、講演会などで明らかにされる衛生情報を共有することで、「健康保護」の効果を高めることを目指したのである。大日本私立衛生会は、半官・半民の組織であった。

専斎は、住民の健康を増進するためには「各自衛生」と「公衆衛生」によるアプローチがあるとする。前者は明治期以前より知られた、いわゆる「養生」に見える取り組みであり、後者は専斎が西洋で注目した「政府ノ法律」として実施される伝染病予防などの「健康保護」である。

住民は法律によって自由が制限されることが分かると、それに抵触することを避けようとするが、伝染病予防においては、単に法律に違反しないようにするだけでは十分ではなく、何よりも住民自身が無病長命を望むことが必要であった。こうした事情から大日本私立衛生会への期待が膨らむ。同会での議論を通じて、ひとたび「健康保護」の重要性を理解した人間は、「社会ノ先達」として「自暴自棄ノ人ヲ教化」することへの貢献が予定されたからである。

専斎は同会を通じて、各地のリーダーを養成し、衛生情報が地域で共有されることで「健康保護」への住民の理解と協力が進むことに期待を寄せた。専斎にして大日本私立衛生会の設立は、「人民の側」に立ち、「懇ろに理義を説き諭して迷夢を警醒」するための取り組みであった。専斎はこれまでの「官」の取り組みに加え、「民」の理解と協力を得ることで両者の協調に裏打ちされた「健康保護」を目指したのである。

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