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【特集:歴史にみる感染症】
長与専斎とコレラ流行予防

2020/11/05

伝染病予防と警察

明治10年以降のコレラ対策では、内務省衛生局の官吏や地方の吏員に加えて、警察も活用されていた。またコレラ対策を進める中で設置された「中央衛生会」へも警察は参加していた。こうした事態に対して専斎は、伝染病予防を進める上で地方行政との連携だけでなく、警察行政との関わりも必要であるとする。

専斎は「健康保護」では「学術的運動」を重要視しており、この運動が医師や市町村の吏員等を通じて住民に理解されればよいが、それがかなわない場合には「自治に一任」することなく、警察の職権に基づく介入を想定していたのである。

一方、警察の側では、明治ゼロ年代より、行政警察の一環として、住民の健康への関わりを認めていた。そのため伝染病予防を実施する際、「衛生課」や「衛生委員」とともにライン組織の一翼を警察が担うことも可能となっていた。

このように「健康保護」の実現には警察は必要な要素であり、また実際に対応に当たっていたのであるが、その一方で、そこにおいて警察が主導するような事態に対しては、専斎は痛烈に批判した。

住民は患者であることが確認されると、避病院と称される隔離病舎へ収容される。コレラの致死率は高く、生きて帰れない者が多かった。そのため住民は政府の施策を畏怖し、患者の隠蔽を選択するようになる。この隔離政策を警察が主導することになれば、専斎からすると迅速ではあるが、紋切り型との評価に繋がっていく。警察主導の伝染病予防は、強権的・一律的であるとの側面が強調される一方、患者の事情を酌量することについては軽視される傾向にあり、これが住民の協力を遠ざける一因であると専斎には映っていたのである。

この強権的・一律的な対応を問題とする専斎の立場は、患者宅への病名票添付問題においても確認できる。

明治13年の伝染病予防規則では、患者宅に病名票を添付することが求められたが、住民が嫌がることから、明治15年、太政官は病名票添付の中止を決定する。しかし明治18年から19年にかけてコレラが再び流行し始めると、その患者の数の多さを前に警察は、もはやそれを管理できなくなり、病名票の添付の復活を認めるよう中央衛生会に求めた。この時、この警察の求めに反対したのが専斎であった。病名票を添付すれば、住民が政府の施策を嫌がり、協力を得られないとするのが理由であった。専斎は東京のような大都市では人口が多く、発生する患者も多いことから、現実的立場から病名票の貼付を認めたが、都市と比較し居住域が分散する地方ではその必要なし、としたのである。しかしこの専斎の立場は受け入れられることなく、病名票添付は復活した。

そして、これにとどまらず、明治18年から19年においては、専斎が地方の衛生課長等と協議しながら作り上げた「府県連合衛生会」や、住民に政府の意向を直接届けることが期待された「衛生委員」が廃止され、その一方、警察の介入を助長する明治19年の伝染病予防のための「心得書」が作成され、さらに地方官官制中、警察の伝染病予防事務への関与が明文化されるという事態が発生する。特に明治19年の「心得書」では、警察の職権による伝染病の「撲滅」や「隔離」が強く求められていた。

このように明治10年以降のコレラの流行を受けて、一方では伝染病予防への警察の関わりが強化され、他方では内務省衛生局のそれへの関わりが縮小することとなった。

専斎は伝染病予防から警察を直ちに排除しようとしたわけではなかったが、19年以降の対策が、強権的・一律的な側面が強調される「警察一手持ち」と見なされる事態となれば、これに賛同できない住民の協力は得にくくなり、専斎が大日本私立衛生会の設立によって期待した「官」と「民」の協調の促進は困難となってしまう。専斎は後年この動きを振り返り、これを「19年の頓挫」と嘆いた。

明治23年の「心得書」

明治19年の「心得書」が出されたことで、コレラ対策の現場において警察の介入が大幅に許容された。しかしその翌年には早くも修正が迫られ、住民の「自覚」を問う方針が採用される。そしてこの修正明治19年の「心得書」の路線は、明治23年に新たに「心得書」が出されたことで確認され、精緻化されていく。

明治23年の「心得書」は、伝染病予防における医師、住民、隣保、衛生主務吏員、警察官等による「分担」を求める。そして今回の改正を通じて明治19年以降専斎が憂慮した「警察の手に一任」された施策からの解放の兆しが見え始めたのであった。

すでに見たように専斎は「各自衛生」に加えて、「公衆衛生」の必要性を説く。「公衆衛生」では行政の役割が求められることになるが、「官府」がいかに熱心に対策を立てたところで、住民は伝染病予防を「御用仕事」と認識してしまい、その協力を得ることは困難となる。そこで住民自身の「自覚」に期待し、「官」と「民」の視点から、それぞれの「分界」を意識し、警察の介入も加味しながら、「一致協力」することを求めたのである。まさに明治23年の「心得書」は専斎の構想に沿ったものであったといえよう。

専斎のこの「官」と「民」の協調の視点は、水道事業にも取り入れられた。

専斎は伝染病予防をはじめ、「健康保護」のための基本法の制定や中央・地方関係の形成などに精力的に取り組む一方、その各論に触れることは多くはなかった。しかし「衛生工事」すなわち上水道や下水道の普及には熱心であった。その成果は、明治16年の神田下水の敷設や明治23年の水道条例の制定に見て取ることができる。前者は日本人による初めての暗渠として記憶される。後者は、専斎が明治20年以降、東京市区改正事業の一環として東京の水道の普及に尽力したことが、大阪などの取り組みと共に評価され実現した。住民がコレラ菌に汚染された水を介して患者となることが問題視されたことから、専斎は「衛生工事」を伝染病予防の「本体基本」と位置付けていたのである。

専斎の取り組みの成果の1つとして新たに制定された水道の基本法である水道条例では、水道敷設の際の「官」の責務だけでなく、「民」の果たす役割も明記された。住民は水質や水量の管理を「官」に求めることができる一方、家屋内の給水用具や本管へ接続するための細管は「民」の側の負担であった。水道事業も「官」と「民」とがそれぞれに役割を果たすことで効果をもたらすことがここに予定された。

近代以降の日本の伝染病予防をはじめとする「健康保護」には、医学等学術の「政務的運用」を進めるべく「官」と「民」の協調を求めた専斎の取り組みやその成果を随所に確認することができる。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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