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【特集:歴史にみる感染症】
座談会:文学に現れる感染症

2020/11/05

結核とエイズの文学

小倉 次にやはり結核です。巽さんもおっしゃったように、19世紀後半から20世紀前半の世界で一番多くの犠牲者を出したのは疑いもなく結核なわけです。20世紀半ばに抗生物質が発見されるまでは、事実上不治の病ですから、サナトリウムに行くか、海辺に行って治るのを待つしかない。運がよければ治るし、そうでなければいずれは死に至ることになります。

ただコレラなどと違い、結核の特徴は「すぐには死なない」ということです。それからコレラやペストだと、身体的に黒くなったり、醜く変形してしまうけれど結核はそうでもない。そういう特徴があるので、ソンタグも「隠喩としての病」の1つの典型として結核を挙げていましたが、様々な神話や伝説を誘発しやすく、結核が文学作品の中でも大きくクローズアップされている。

フランスで言えば、例えば『椿姫』です。大体19世紀のフランスの文学では若い女性は最後は死んでいくことが多い。その死因の多くは結核です。男は絶対死にません。『椿姫』のマルグリット(ヴェルディのオペラではヴィオレッタ)がそうですし、ミュルジェールの『ラ・ボエーム』のミミという女性もそうです。こちらもオペラでおなじみですね。そうした女性が満たされない恋の情熱を抱えて死んでいく。

あるいは、日本で言えば啄木などがそうですが、優れた才能や能力に恵まれた芸術家が、まるでその才能の代償であるかのように、結核で若くして命を散らしていく。その意味では、結核という病は若くして美しく死んでいくことの崇高さを劇的に文学化してくれる病なのです。

そして20世紀後半ではやはりエイズだろうと思います。フランスではエルヴェ・ギベールが有名ですが、ギベールの前にドミニック・フェルナンデスという作家の『除け者の栄光』という作品があり、これが最初のエイズ文学と言われています。

エイズは1980年代に見つかった病で、私はちょうどそのころパリに留学していました。ですからエイズの発症と蔓延がフランスの、とりわけ芸術家や知識人の世界にどういうインパクトをもたらしたかをリアルタイムで体験しました。このドミニック・フェルナンデスの作品は、主人公2人が男性の同性愛者です。

当時、偏見といえば偏見なのですが、ゲイのコミュニティーにエイズが蔓延しているという風説がありました。その主人公の1人が最期はエイズで死んでいくという設定ですが、この中では社会や家族との関係で、エイズはいろいろな意味付けをされていて、最終的には神から下されたある種の処罰という捉え方をされます。主人公はそれを、いわば自ら引き受け、最期は孤立した主人公が自分の孤独や排除を一種のメタファーとして敢然と引き受けて死んでいく。それを同性のパートナーが記録するという形で描かれています。

他方、ギベールのほうは、本人自身がエイズを患って、その記録を自ら書き綴ったわけです。実際に体がどんどん衰えていく様をほとんどリアルタイムに書き記していく。

実はここでエイズと結核には1つの類似性があることが分かります。つまりすぐに死ぬ病ではない。したがって結核もエイズも、その患者に対して生きる時間、あるいはそれまでの自分の人生の意味を考える時間が与えられる。それが非常に特徴的です。ペストやコレラとはそこがまったく違う。

ギベール自身も最期はエイズで死んでいくのですが、言ってみればこのエイズという病を自らのスティグマとして引き受け、そこに様々な意味を読み込んでいく。その上で、そのプロセスを1つ1つ書き綴って物語にしていくのです。

今コレラと結核とエイズの例を挙げたのですが、いずれも文学という芸術の営みが、致死的な感染症を表象すると、極限状態に陥るという状況をつくり出すのに非常に上手く機能する。しかも周囲から孤立した極限状態です。

同時代ではコレラもエイズも、そして現代のコロナも有効な治療薬がない。そういう不安をかき立てる状況の中で、人間たち、あるいは共同体や社会がどういう反応をして、どのように生きていくのか。それを常に語ってきたような気がするのです。

もちろん、もうコレラはそれほど怖い病ではなく、エイズもかつてのように死に至る病ではなくなっているわけですが、そうした疫学的な進化は別として、こうした感染症が起こるたびに、その都度人間や社会は似たような反応を繰り返している。それを感染症の文学というのはよく教えているという気がします。

そう考えれば、今のコロナを機に、これから一体どういう文学が生み出されるのか、というのは非常に興味深いところです。

カミュとメアリー・シェリーに見る連帯

 有り難うございました。それでは続けて小川さん、英文学の方からいかがですか。

小川 いくつか具体的な例を挙げながら感染症文学についてお話できたらと思います。1つ目がメアリー・シェリーの『最後のひとり(The Last Man)』(1826)という作品です。今回、あらためて読み直してカミュの『ペスト』との類似点が多くてびっくりしました。

小倉さんが、ドミニック・フェルナンデスの作品の中で、エイズという病を神による罰として引き受けるとお話しされていましたが、そういう視点からカミュの『ペスト』を読むと、神による罰というものを、意識して否定しているような気がします。そして、メアリー・シェリーとの共通点が、まさに「天罰としての病」を否定しようとするところなのです。

『最後のひとり』は2073年という未来が舞台なのですが、『フランケンシュタイン』が1818年に出版された後に、メアリー・シェリーの関心が感染症に移ったのはなぜかを考えると、まず伝記的な理由があります。そもそも彼女の母親、メアリ・ウルストンクラフトは彼女を産んで10日後に産褥熱で亡くなっている。また自分の子供も2人失っていて、その1人、クララは赤痢で亡くなっている。そういった彼女自身の経験と罪の意識が、『最後のひとり』に色濃く表れているように思います。

『最後のひとり』は主人公のライオネル・ヴァーニーという語り手が地球上の最後の1人になるというアポカリプス(黙示録)的な話です。娘さんと同じ名前のクララという子供が最後に登場しますが、もう1つの伝記的な部分は、自分の夫であった詩人のパーシー・シェリーもかなり理想化された人物として物語の中に登場している。それがエイドリアンという主人公の友人です。

ライオネルとエイドリアンの関係性を見ていくと、カミュの『ペスト』で主人公の医師リウーが新聞記者ランベールと対話する場面によく似ているのです。ランベールは隔離されているオランの町から、「恋人が待っているから」と逃げようとする。でも最終的にリウーと対話を重ねることで、自分さえよければいいという考えを捨て、町に踏みとどまり、リウーたちと連帯していく。

メアリー・シェリーの『最後のひとり』でも、困っている人を助けるエイドリアンという行動の人が愛や連帯の大切さを教えることで、ライオネルが最後まで生き延びることができるのです。

デフォーの『ペストの記憶』でも蛮勇を奮って感染した人を療養所に搬送したり、死者を墓場に運んだりしたジョン・ヘイワードというヒロイックな登場人物がいます。1817年に『ペストの記憶』を読んだシェリーは、この作品からインスピレーションを得た部分があったのかもしれません。だから「連帯」というテーマが、カミュの『ペスト』の中にあるのであれば、まさに『最後のひとり』にも、『ペストの記憶』にもある。そこが共通しているのだと思います。

今のコロナ禍でも、分断か連帯かということが問題になっていますが、カミュは戦いや人を死なせることに、すごくためらいを持っていた作家で、例えばタルーという登場人物が、自分の父親が検事で、ためらわずに人を死なせることに対して、隠喩として「ペスト」と呼んでいるところがある。それは先ほど小倉さんが言っていたことと重なり、ペストというのは悪、つまり、人を死に至らしめるような行動や言動のメタファーなのです。

『ペスト』の最後にリウーとタルーによる神や信仰についての対話があります。タルーがリウーに「平和に到達するために取るべき道について何か考えはあるか」と尋ねると、「あるよ。共感ということだ」とリウーが答えている。

神や宗教による救いではない解決策を、カミュはサンパティ(Sampati)=共感という言葉を使って表している。英語ではシンパシーまたはコンパッション(Compassion)です。

おっしゃたように、結局、戦争やナチズムを背景にしてカミュは書いているのですが、その時に、上から目線で人を支配するということではなくて、人が助け合うという関係を構築していきましょう、という極めて現代的な問いを発していると思うのです。

今のコロナ禍でも、人種差別が強まったり、貧困層の人たちが困っているのに行政が対応しないという問題がありますが、カミュやメアリー・シェリーにも同じメッセージ性があったのではないかと思います。

ヴァージニア・ウルフとスペイン風邪

小川 「シンパシー」の問題が、おそらくヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』にもつながってきます。これまではスペイン風邪がモダニズム期(20世紀初頭)に猛威を振るっていたという文脈があまり語られてこなかったのですが、エリザベス・アウトカという研究者によれば、1919年にスペイン風邪に罹ったヴァージニア・ウルフ自身の経験がこの小説に映し出されています。

ウルフの研究者がよく取り上げるテーマは、やはり戦争(第1次大戦)です。『ダロウェイ夫人』には、セプティマスという大戦を経験した男性が、最後にシェルショック(砲弾のショック)の病を抱えて自殺してしまうという話が出てきますが、スペイン風邪がおびただしい数の犠牲者を出していた状況は直接は書かれていない。ウルフは背景に、うっすらと見えるような形でしか感染症を描かなかったのです。

コロナ感染も後遺症が残るというようなことが最近言われ始めていますが、スペイン風邪も、体は治っても、やはり認知機能が低下したり、悪影響をもたらすことがあったそうです。ウルフはもともと精神病を抱えていて、それに加えてスペイン風邪を患い、幻覚に近いヴィジョンが小説にも投影されています。

『ダロウェイ夫人』の読者がときどき幻覚なのか現実なのか分からないという、そのあわい(間)の部分が描かれているような場面がある。それは脳がつくり出した幻覚の部分であって、まさに脳という身体の臓器を通して現実を捉えるようなヴィジョンになり、モダニズム文学の特徴にも通じている。だからスペイン風邪とモダニズムというのは切っても切れない関係にあるとも言えるのではないかと思います。

「シンパシー」という言葉はウルフも何度も使っています。「同情」「共感」と日本語では2つ意味があると思うのですが、ウルフが徹底的に批判したのは上から目線の「同情」の方です。

一方、自発的に相手のことを思いやる共感は奨励する。この2つのシンパシーの区別を彼女はずっと言い続けていました。彼女は『病になるということ』というエッセーも書きますが、今のコロナ禍の中で、病人に対してどう接すればいいのかということも意識して読むと、ウルフの文学はすごくおもしろいのではないかと思います。

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