三田評論ONLINE

【特集:歴史にみる感染症】
座談会:文学に現れる感染症

2020/11/05

疫病の知らせは東方からやってくる

小川 巽さんの『ニュー・アメリカニズム――米文学思想史の物語学』には、疫病とコットン・マザー(ニューイングランドのピューリタンの牧師、文筆家)の話がありますね。

この中でバルバドスからもたらされた天然痘の話があるのですが、ある種神話化された、異民族が別の土地から疫病を持ち込むという話は、ありとあらゆる文学に継承されてきたような気がします。

『ペストの記憶』も『最後のひとり』もそうです。後者では、東方、つまりギリシャで疫病が猛威を振るいはじめたというニュースが入ってくるわけですが、登場人物の誰も最初は気にしない。ただ自分たちの身に降りかかりはじめると大パニックになる。

これは本当に今年の3月のヨーロッパがそうでした。イギリスの友人たちは、当初は武漢のニュースを見て、イギリスでは起こり得ないこととして遠巻きに見ていた。ところが、1カ月ほどして自分の身に降りかかった途端、やはり大慌てしていました。

イギリスの文学には、自分たちは島国だから安心と考えてしまう分、疫病がやってくると脅威になるというテーマがある。海をも渡ってくる疫病の恐怖を描いた文学といえば、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)がまさにそうです。

丹治愛『ドラキュラの世紀末──ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』では、『ドラキュラ』はコレラとゼノフォビア(外国恐怖症)の寓意だと言っています。ストーカーの母親はアイルランド、スライゴーの出身だったのですが、実際にコレラが東方から近づいてきて、1832年についにスライゴーに達して多くの犠牲者を出しました。東方から疫病がやってくるメタファーは、ある意味でもうお決まりの形として継承されている。

ただそれが帝国主義的なイデオロギーをある種支えてきたのか、あるいはそれを批判しようとしたのかというあたりが両義的とも言えて、『最後のひとり』もライオネルが感染する場面はポストコロニアル的に書かれています。

疫病に感染したある黒人の男が、ライオネルに突然抱きついてくる場面があります。今この解釈が多くの論争を呼んでいます。シェリー研究者らはそれが抱擁という形をとる「共感」なのか、ライオネルがその男をその後引き離したという点で「拒否」なのか、意見が分かれている。

私の読みは「共感」(compassion)です。なぜなら、この「抱擁」によって、ある奇跡が生まれるからです。次の日にライオネルはかなりの高熱が出て、その疫病にかかるのに、唯一生き残る。ライオネルが生き残った理由は、彼には共感力があって、次世代の未来を担うべき人間像として描かれているという解釈もできるのではないかと思います。

『最後のひとり』を読み込んでいくと、カミュや『ダロウェイ夫人』ともつながる感染症文学のおもしろさが立ち現れてくるような気がします。

スペイン風邪を描いた日本近代文学

 では次にバナードさん、日本文学の文脈で語っていただけますか。

バナード まず日本近代文学の中で描かれた感染症という問題系を考えてみると、これは日本文学だけではないと思いますが、2つの類型に分けることができるのではないかと思います。

それはエピデミック、もしくはパンデミックの文学、つまり感染症流行の状態や影響を直接描いた文学と、より広義での感染症の文学です。似てはいるのですが、実は違うジャンルというか、それぞれのレトリックと構造があるのではないかと思います。

日本近代文学の場合は、エピデミックやパンデミックを直接描いた作品は、あるのですが意外に少ない。それに対してもっと広い意味での感染症の文学は、むしろ日本近代文学の中心的なテーマの一つと言っていいのではないかと思うぐらい作品がたくさんあると思います。

さらに、パンデミックもしくはエピデミックの文学には、社会や共同体のレベルで感染症が人間に及ぼす影響を俯瞰的に描いた作品と、個人的なレベル、つまり「ある登場人物がスペイン風邪にかかって死んでしまいました」というような一人単位の人間関係を描いた作品があると思います。

日本近代文学の中でエピデミックを描いたものは、ほとんどスペイン風邪です。まず宮本百合子の『伸子』という小説。これは宮本自身の経験に基づいた自伝的な作品ですが、伸子という主人公がニューヨークに留学し、スペイン風邪にかかる場面があります。

そして、最近コロナ禍で注目されていると思いますが、歌人である与謝野晶子の「感冒の床から」と「死の恐怖」という2つの評論というか、批判的なエッセーがあります。スペイン風邪の時に政府の対策が足りないとか、今に通じるところがあって、鋭い視点を持つ文章だと思います。

そして志賀直哉の「流行感冒」という非常に志賀直哉らしいスペイン風邪を扱う短編小説があります。死とは何か、生とは何か。そして死と生に対していかなる情動的なスタンスを取るべきかみたいなことをじっくり考える小説だと言えます。

この作品は実はコロナが流行してから初めて読んだのですが、とても興味深く思いました。幻想文学やゴシック小説が好きなものとして、流行性感冒がいつやって来るか、目に見えない恐怖を与えるものとして書いているので、超自然的なところはまったくないのですが、言い過ぎかもしれませんが一種の恐怖小説として面白かったです。志賀直哉の私小説と怪奇幻想文学をもしつなげるとすると、その架け橋の1つは感染症なのかもしれません。

武者小路実篤の『愛と死』という有名な作品もあります。主人公と恋愛関係にある夏子という女性が小説の最後のほうにスペイン風邪で亡くなる。パリにいる主人公の元に、夏子は死んだという知らせが来て悲しむという、メロドラマティックな場面になるわけです。

ただこれらの作品は、共同体にスペイン風邪がどのような影響を与えたとか、小川さんが言われた分断と連帯の問題については、あまり直接考えていないような印象が残ります。逆に、小倉さんのお話にあったメロドラマをつくるために、女性をある意味死なせてしまうものとして機能しているのではないかと思いますね。

結核文学とハンセン病文学

バナード 次にもっと広義での感染症の文学を見てみると、いろいろな作品が視野に入ってきます。この点において西洋文学の影響を受けていると思いますが、代表的なものはやはり結核とハンセン病です。結核には福田眞人氏の『結核の文化史──近代日本における病のイメージ』という研究書が存在し、ハンセン病には『ハンセン病文学全集』が存在するほど、両方とも本当に膨大な作品数があります。

結核の描写はやはりフランス文学の場合と似ていて、美しい病気としての記号のように使われている。その代表的な作品は徳冨蘆花の『不如帰』でしょう。

ちなみに『不如帰』が発表される5年ほど前にイギリスの詩人ジョン・キーツが恋人ファニー・ブローンに宛てた手紙が和訳されて『文学界』に発表されるのですね。これによって結核で亡くなった若き詩人であるキーツ、というイメージが明治期の浪漫主義に大きな影響を与える。それが「美しい病気」としての結核文学の1つの出発点なのではないかと思います。『不如帰』的なメロドラマは他にもいろいろあって、堀辰雄の『風立ちぬ』もその代表的な作品でしょう。

対照的なのがハンセン病の小説です。当時は「らい病」という言い方でしたが、1つのジャンルと言っていいぐらい、明治期にはたくさんの作品があります。結核とは逆に表面的にも内面的にもグロテスクな病気、そのような記号として使用されていたのです。

今から見ると非常に差別的な描写になるわけですが、その理由の1つは感染症なのに、明治時代には遺伝する病気と誤解されていたところにあると思います。血統の問題とか、非常にゴシック的な捉え方をされていたので、ゴシック寄りの描写になる場合が多いのです。

個人的に重要だと思う作品を述べてみると、まず幸田露伴の「対髑髏(たいどくろ)」。これは東雅夫さんが「近代最初の本格的幻想文学作品と呼ぶにふさわしい傑作」と評価しています。泉鏡花の『高野聖』に似ている話ですが、最後に山の中で出会った美しい女性が、実はハンセン病で狂死した人の霊だったという小説です。

同じ年に尾崎紅葉も「巴波川(うずまがわ) 」というハンセン病の女性が登場する作品を書きます。個人的に再評価すべきと思っているのは生田葵山(きざん)という、硯友社の作家です。

生田葵山に「団扇太鼓」という作品がありますが、主人公が自分の家系はハンセン病だと思い込み、自分の体にいつ現れてくるかを恐れる、非常にゴシックな小説です。小倉さんが言われたように、すぐには死なない病気として、生きる時間はまだあるのですが、自分の人生がいつ終わるか分からないという不安と恐怖を巧みに描いていると思います。

そのように、明治期においては結核とハンセン病という対照的な描写があるのではないかと思います。ほかにも尾崎紅葉の『青葡萄』というコレラを扱っている作品とか、広津柳浪の小説に天然痘の描写もあるのですが、ハンセン病と結核が圧倒的に多い。

硯友社出身だった泉鏡花にも触れると、鏡花の怪奇譚の中にも感染症の描写が多く現れるのです。代表作『高野聖』も、「はやりやまい」と鏡花は表現していますが、舞台の背景として岐阜の山の中におそらくコレラがはやっている時期に旅僧が山の奥へ分け入る。鏡花の場合はお化けも菌も目に見えない恐怖を与えるものとして同一扱いされていることが多い。他の作品でもグロテスクな病気になっている身体を数多く描写しています。

有名な話ですが鏡花は潔癖症でした。実際に赤痢になったこともあって、だんだんと極端な潔癖症になっていったのではないかと言われますが、携帯用の消毒液入れを持ち歩いていたそうです。当時は迷信家扱いされていましたが、コロナ禍の現在から見るとむしろ現実的な行動だったと言えますね。

鏡花における病原体の捉え方は案外近代的なので、近代と前近代が独特な感じで混ざっているところがおもしろいですね。

また、戦前の伝奇小説の作家で有名な国枝史郎という作家がいます。国枝の最高傑作とされている『神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』という作品があります。和風ファンタジー小説という感じの作品ですが、ハンセン病をひどく患っている王様が徘徊するような怪奇な場面があるのです。ひょっとすると、ポーの「赤き死の仮面」を一要素として和風化した作品として読めるかもしれません。

感染症が描かれた文学を読むことは、潜んでいた社会の「亀裂」とか、いろいろな差異とか差別を、可視化するきっかけになるのではないかと思うのです。実際に、コロナが蔓延するアメリカの現状などを見ると、一概には言えませんがやはりマイノリティーの多い地域や貧困地域こそ感染者が多いそうです。そういう普段見えない差異を可視化するのが感染症だとも言えるのではないでしょうか。

目に見えないもの、つまり病気などに対する不安、恐怖と、逆に今までずっと隠れていたものが感染症を機にあらわに出現することに対する恐怖、この両方の様相があるのではないかと思います。例えば『アーサー・マーヴィン』なども、社会的な、ある意味政治的な要素もあって、黄熱病によって1790年代のフィラデルフィアの社会の差異や不平等さが可視化されるということがあるのだと思います。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事