三田評論ONLINE

【特集:福澤諭吉と統計学】
座談会:150年のスパンで「統計学」を見る

2020/06/05

高まる統計教育の必要性

馬場 今回の統計ブームもブームで終わらせてはいけないと思います。これからの統計の在り方、統計学の在り方、データサイエンスの在り方についてお聞かせいただきたいと思います。

西郷 先ほど、政府の統計を今までと同じように取っていくことができなくなったと話したのですが、逆に統計を使うユーザーの立場からすれば、技術の発展はめざましいものがあります。例えば私が学生時代に書いた論文と、今の学生が書いている論文とは全然レベルが違うんですね。その1つの要因は、使えるデータが増えたとともに、使える技術が昔と今とでは全然違うということです。

例えば私が学部の学生の頃に、楽曲の分析を統計的にやることはほぼ不可能に近かったと思いますが、今の学生は音声をデータ解析できるように処理し、画像処理などを使って、自分のやりたい分析が、半年とかそれぐらいのレベルでできてしまう。ですから今は、誰もがかなり難しいデータを分析できる時代に入っている。ただ、それをしかと認識できている人は、まだ多くはいないような気がします。

もしデータが、あるいは統計が、われわれが生きていく上で非常に有用なものであると認識できれば、例えば政府が国政の在り方を決めていく上で、そのデータが非常に重要なものなのだと認識するでしょう。そういう意識が高まることによって、国が必要とするような、あるいはわれわれ国民が必要とするようなデータがもっと取りやすくなるのではないか。そういうことを大学も含めた統計教育の場でできないかと思っています。

馬場 統計教育という点で言えば、内閣府が発表した「AI戦略2019」では、2025年には文理を問わず、すべての大学生にデータサイエンスの標準カリキュラムを身に付けさせることを目標にしています。

これからの時代は、EBPM、データに基づいた、証拠に基づいた議論がどんな分野にも必要です。また、大量のビッグデータの中で、間違った結論に導こうと思えばできてしまう可能性もあるわけですけれども、それをきちんと見抜く力と、正しくものごとを読み解く力が必要になります。

これは科学的なものの見方という点で福澤に通じるところがあると思います。今までのように一部の統計家が統計を扱えばいいのではなく、国民皆が統計的な視点を持つことが重要だと思います。それだけに統計教育にも一層力を入れなければいけません。

問い直される近代日本の「統計」

大久保 私は統計の問題を政治思想史の視座から検討していますので、今日、統計学を学ばれる学生の皆さんには、是非とも一度は歴史の観点から眺めていただきたいと思います。それによって、統計学の重要性を再認識するとともに、統計学は本当に万能なのか、自明性を疑う視点も同時に養っていただきたいと考えます。

本日、議論してきたように現在の統計学の礎が築かれたのは19世紀になってからであり、近代の形成と深く結び付いていました。それ故、当時は西洋でも日本でも、「統計とは何か」という、本質的な問いが存在しました。

先ほど夏目漱石の話がありましたが、文学の関連で言えば、ドストエフスキーは『地下室の手記』の中で、次のように述べています。「諸君は、ぼくの知るかぎり」、人間の利益や幸福をあらわすのに、「統計表や経済学の公式から平均値」をとってきている。それに楯突く人間は「頑迷な非開化論者」と言われる。「これが諸君、バックルも生きていたわが19世紀というやつなのだ」、と。

統計表を用いて幸福を示す、バックルに象徴される19世紀。果たしてそれは真の幸福なのか、というドストエフスキーによる文学者の側からの批判です。

これは福澤が『文明論之概略』の中で直面した問題とも重なります。果たしてアジアは自然決定論的な停滞論から抜け出すことができないのか。真の文明とは何か。福澤は「スタチスチク」を重んじながら、その先にある問題にも触れ、思索をめぐらせました。

データサイエンスやAI技術が高度に発展した現代、こうした歴史の出発点に存在した思想課題に目を向けることは、それこそ「頑迷な非開化論者」の戯言でしょうか。是非ともこれから統計学を学ぶ若い人たちに、一度は考えていただきたい問題です。

椿 現在は、統計が1つの横断的な教養、まさに科学的方法の1つの典型になっており、それを小学校から高等教育までの間にきちんと身に付けるべき時代です。

今までデータは高嶺の花で、データを取ること自体が大変なコストでした。そういった時代には、一般の人が統計を作るということはなかなかできませんでしたが、今はそれができるような時代となり、それを分析するツールも大変進歩してきている。最近は高校生でも機械学習を勉強しているサークルもある。その意味では、非常にいい時代にはなったと思います。

ただ、横断的な教養であると同時に、もう1つ、「では統計は何に尽くすのか」という問題があります。ある方にとっては政策でしょう。それから、医学など諸々の学術に対して統計は貢献する。さらに使用者の持っている専門性や知識を進歩させるツールにもなり得る。しかし、逆に統計は、人間を支配し、「こういう結論でやりなさい」という形になってしまう恐れもあります。

今、あまりにもAIや統計に対して期待が高すぎるので、あくまで自分たちの知識を進歩させるツールであり、横断的な教養であるということを、もう一度きちんと据えていかないといけないのかなとは思っています。

馬場 本日は現代の統計学ブームから150年前を振り返ってみたわけですが、統計には非常に様々な側面があることが再認識できました。そのことに気付きながら福澤など明治の人たちは統計や統計学を取り入れようとしました。そうした営為があって、現代につながっているのだと思います。

これからますます統計学、データサイエンスは世の中で重要な役割を果たしていくと思います。大久保さんもおっしゃったように歴史的な視点も忘れずに、多くの国民が教養として、統計的な視点を持つことや統計の重要性を共有することが大切だと思います。

本日は有り難うございました。

(2020年4月16日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事