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【特集:福澤諭吉と統計学】
座談会:150年のスパンで「統計学」を見る

2020/06/05

大隈重信と「スタチスチクの仲間」

馬場 大隈重信も「統計伯」と呼ばれるぐらい非常に統計と深い関わりがありました。

1879(明治12)年に福澤から大隈に宛てた書簡があります。その中で福澤は慶應義塾の塾員を13名、「スタチスチクの仲間」ということで紹介をする。それから、杉亨二や呉文聰(くれあやとし)など3名を「統計局の人」として推薦する。その書簡あたりが、おそらく福澤と大隈とが統計を介して非常に接近していった頃なのではないかと思います。

大久保 福澤と大隈とをつなぐ1つのパイプが統計院創設(1881年)に絡む人的な交流です。

ただし注意すべきは、福澤の手紙の中で杉亨二の名前が出てきますが、杉は当時、すでに太政官正院の政表課で、独立した政府統計の実現を目指して尽力していました。しかしその一方で、大隈を大蔵卿に置く大蔵省にも「統計寮」が設けられ、明治政府内で統計行政が分岐していきます。

すなわち彼らの間で統計学を通じた人的交流があったものの、その背後には、政府内の統計行政をめぐる綱引きと対抗関係も存在していました。

そしてこの対立に1つの終止符を打ったのが、1881(明治14)年5月の参議大隈重信による太政官統計院の設置です。これによって、杉らの政表課は統計院に包摂・解消されました。

このとき、大隈の右腕となって働いたのが、福澤の推薦によって送り込まれた、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、牛場卓蔵ら慶應義塾グループです。

その背景には政府統計を充実させるという目的以上に、国会の早期開設に向けた大隈と福澤の政治的な連携と共闘があったと考えられます。これが明治14年の政変へと発展しました。

椿 1871(明治4)年、太政官正院に政表課ができて杉亨二がそこに行く。一方で、大蔵省のほうは、伊藤博文が統計のほうに行っているんですね。そちらはむしろ近代官僚みたいな人たちが主導した可能性がある。

政表課のほうは、蕃書調所以来のグループがイニシアチブを執っていたのでしょうか。

大久保 そうだと思います。杉たちは、近代国家を形成するためには政治的に中立な中央統計局を設立する必要があり、その役割の中核は人口調査を中心とした調査統計にあると考えた。それに対して大隈らは、各省庁から数字を集めた業務統計の作成に終始します。杉からすると、統計局としての役割をそれだけにとどめてはいけないという意識が強くあったと考えられます。

椿 当時、まさに「政表」という言葉と「統計」という言葉が分離して、杉亨二は福澤の「万国政表」に対して「日本政表」を刊行している。

杉は政表、あるいはスタチスチクそのものにすごくこだわりがある、とよく聞くのですが、むしろ「統計」という言葉自体は大蔵省のほうが先に使ったようですね。

西郷 「統計」という言葉の使われ方も問題だという話もありますね。昔はサ変動詞の「統計する」という言葉があって、それは「精算する」と同じような意味で、何かあるものをまとめるというような時に「統計する」と言ったと。この意味で、大蔵省のほうにできた統計司とか統計寮は使っている。「統計」という言葉の意味が、必ずしもわれわれが、今イメージする「統計学」や「統計」とは同じではない気がしています。

そのため杉亨二は、今まで使われている「統計」とは違うのだという立場で「政表」としたのでしょう。「せいひょう」も2つあって、「政表」と書く場合と、今の製表課と同じ「製表」と書く場合がある。杉亨二は両方使っていたりします。

大隈と杉亨二の違い

西郷 政府内の統計組織の中で福澤がどのように影響したのかというところがよく分からないのです。少なくとも大隈と杉亨二というのは、政府内の統計組織の中で必ずしも上手くいっていなかったのではないかという印象を持っています。

統計院の設立に関して大隈が、杉の部下であったと思われる相原重政という人に頼んで、プロシャの統計局に勤めていたマイエットという人のところに行ってプロシャの統計局を真似て、「統計条例草案」というものを起草している。そこだけ見ると、大隈と杉の関係はそれなりに良好であったかのように見えます。

ところが統計院ができた途端に、杉は当然、自分が専門家として中心的な役割を果たす形になると思っていたと思うのですが、そうではなくて、それまであまり統計と関係のない尾崎行雄や犬養毅とか、そういう人たちが統計院を占領するような形になります。杉自身は統計の専門家であったにもかかわらず、統計院の中では重用されなかった。

おそらくそのこともあって、統計院が1885(明治18)年に「内閣統計局」という形に衣替えしたときに、杉などの重要人物が辞めているのでしょう。

大久保 実際に大隈を取り巻く慶應派の矢野や尾崎、犬養らは、自分たちが統計院に出仕した真の目的は、国会の 早期開設に備えたものであったと回顧しています。国会が開かれれば、国務の説明をする政府委員が多数必要となるから、今から民間の人材を抜擢して政府に入れ、政務の練習をさせること が大隈の意図であったというのです。

当然、杉ら政表課グループはこうした動きを苦々しく思ったようです。杉の弟子にあたる呉文聰は、矢野や尾崎、犬養について、「新聞記者上がりの統計が何だか分からぬ人が多」く、自分たちのように「統計を畢生の事業と考へて居たもの」としては、「非常に失望」したと述べています。

その中で福澤がどういう位置にいて、いかなる役割を果たしたのかは、なかなか難しい。慶應義塾の出身者を推薦しているので何らかのかかわりはあったと思いますが、福澤の姿は陰に隠れ、表には見えてこない。明治14年政変を考える上でも難題の1つです。

大隈重信の評価

馬場 大隈は、1881(明治14)年の頃は政治的な思惑もあったかもしれませんが、後年、1898(明治31)年には、「政治を行う上では統 計というものが非常に重要だ。国政を進ませる上では政府がきちんと統計をとって、それをもとに政治を行うべきだ」という内容のことを言っています。近年、よく言われているE B P M(Evidence-based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)に通じる発想を、大隈は政治家としても持っていた。

大隈の長い政治家としての人生を見ると、福澤とはまた違って、政府統計、公的統計の重要性を非常に認識していて、その整備をするという点にかなり力を入れていた、という評価ができるのではないかと思うのですが。

西郷 先ほど杉亨二が大隈に冷遇されたと申し上げました。しかし、いわゆる隈板内閣(1898年)は、非常に短命で日本史の教科書を見ると何もしなかったことになっているのですが、大隈は統計行政の上では非常に大きなことをしています。

それは、それまで伊藤博文内閣の時に課に格下げされていた内閣統計課を統計局に格上げしたことです。その統計局は第2次大戦を通じて、今でも「局」のままでずっと生き続けている。これは大隈が政府統計、とりわけ統計局に対して行った貢献としては非常に大きいものがあります。それはもしかしたら何か政治的な意図があったのかもしれませんが、その効果は今日まで続いていると私は思います。

椿 統計院は、今で言えば省か庁クラスのものと大隈は考えていたということですよね。よく統計局で見せてもらった大隈の「統計院設置の件の建議」、あれを読むと、本当に今で言うEBPMのようなことをすごく意識していたのではないかと思うんですね。

西郷 そうですね。ただ、大隈は統計のメーカーというよりは、どちらかというとユーザーとしての意識が強かったのではないか。だから、統計というのは業務記録をまとめれば出来上がるものだと考えていたのかもしれません。

大久保 大隈自身、政府は「完全なる統計表」を作成してはじめて、「現在の国勢」を知り「政策の利弊」を判断できると唱えていますね。

その点に関連して興味深いのが保険制度です。福澤諭吉は西洋の保険制度を、『西洋旅案内』などを通じて日本に先駆的に紹介しました。他方、日本ではじめての保険会社・東京海上保険会社を創設したのが、渋沢栄一です。その渋沢の回顧によると、渋沢と福澤は、大隈重信の家で将棋をさし、その対局中、3人で保険制度について議論をしたとのことです。

言うまでもなく、保険制度は統計的思考を基礎に成立・定着します。福澤、渋沢、大隈。彼らが個々の立場を越えて、社会のあり方を統計的な眼差しで眺め、保険会社や銀行、統計局など新たな制度の創設に取り組んだことは、近代日本の形成を考える上で、極めて重要な意味を持っています。

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