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【特集:福澤諭吉と統計学】
横山雅男と統計教育/佐藤 正広

2020/06/05

横山雅男(慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 佐藤 正広(さとう まさひろ)

    東京外国語大学特任教授、一橋大学名誉教授

はじめに

凡そ物を観察するに当たりて注意するは、

単分子と集合体は単分子のみのものと多少異なる現象を呈することがある。一掬の水は色なきも大海の水は碧く、少量の大気は色なきも天を仰げば蒼々たるが如く、社会及国家の事物も統計学てふ鏡に照らせば立派に其何物かが判る。

物には常因と変因とがある。常因とは普通の原因で、変因とは変わった原因である。

所謂常因は適法、変因は不適法である。

観察が少数なるときは、変因が多く常因以上に渉ることがある。故に観察を大にして変因を圧倒せねばならぬ*1

これは明治42年に開催された福島県第2回統計講習会で、横山雅男が話した内容を、受講生の郡書記が筆記したものである。その内容は、今日でも統計学の基礎の1つをなしている「大数法則」の説明である。今日では数理統計学の立場から数学的に定義されるのであるが*2、横山の説明はごく直感的な経験則を例として説明している。ここでは、はじめに、横山の拠って立った統計学がどのようなものであったかということについて読者にイメージを抱いていただきたいと思い、このような例を挙げた*3。当時の統計学は素朴な確率論に立脚しており、その対象と考えられていたのは「社会及国家」であった。いわゆる社会統計学である。この流れは、わが国の統計学の開祖とされる杉亨二(すぎこうじ)に始まり*4、戦前のわが国統計学に脈々と引き継がれていた*5。今日の目からは、この統計学は一見して未発達あるいは幼稚と見えるかもしれない。しかし、戦前に数多く作成された調査統計(国勢調査や労働統計実地調査、家計調査等)や、業務統計(貿易統計、人口動態統計など)、さらに加工統計(国富統計など)の背後には、このような統計学が理論的バックボーンとして存在したのである。

横山雅男と統計との出会い

はじめに横山と慶應義塾大学のかかわりについて一言触れておこう。慶應義塾大学では1892年に統計学が開講され、P・マイエット(Mayet, Paul)、岡松径に続き、1898年からは呉文聰(くれあやとし)が教壇に立っていた。横山は、呉が1900年アメリカに統計の実情を視察にいった際に代講を務め、1916年に呉が脳溢血で倒れたために、その後任として統計学を担当することとなった。その後、20年近くにわたって慶應義塾大学部・大学の統計学の講義を担当した*6。さて、本稿では、彼がどのようにして統計学を身につけたか、そしてその後、彼がどのように活動していったかに焦点を当てていくことにしよう。まずは横山と統計との出会いを見る。

横山雅男が統計教育を受けたのは、わが国統計の開祖とも言われる杉亨二が中心となって明治16年に開設した共立統計学校であった。この学校はもともと公立として企画され、明治15年に統計院長鳥尾小弥太が統計院内に統計学校を設置するべきであるという上申をしたが予算の制約で受け入れられなかった。そこで、これを受けた杉が同年中に統計院の同僚たちに呼びかけて私費で統計学講習所を開こうと呼びかけたのが始めである。この学校のことを杉はこう回想している。

人命は短うして大業は永久なり、既に老い*7、日暮れて路遠ければ、学校を設立して数百名の学生を教養せんと欲し、此事を鳥尾院長に謀りしに、院長喜んで助力せられ、院中の諸氏も応分の金を寄せられ、又宮内省より金員を賜って明治十六年春、九段坂下陸軍の用地を借受け、爰(ここ)に共立統計学校を新築した。高橋二郎、寺田勇吉、岡松径等の諸氏と共同しスタチスチックの科目二百余条を選み、之を教科目となし、生徒を募集せしに、入学を乞ふもの八十余名で、三年にして卒業生三十六名、修学証明受領二十七名を出した。第二の募集に着手せんとしたるに、十八年十二月大改革があって*8、統計院は廃せられ、余も亦閑散の身となったが、独力で支ふる能はず、共同物なる学校は、東京統計協会の処分を以て廃校となって事も終った*9

横山雅男はこの36名のうちの1人である。共立統計学校のカリキュラムについて今詳しくは述べないが、ハウスホッファーなどの西欧統計学の他、統計調査の実習などを含む、理論と実技とを兼ね備えた教育であった。

この学校の卒業生はその後各官庁に入って、統計業務の中核となり、また後述する各種の統計講習会でも講師を務めていく。彼らは「牛淵同窓会」という組織を作り、廃校後も相互交流と情報交換を継続していった。卒業後の横山の官職は陸軍教授であった。

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