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【特集:福澤諭吉と統計学】
福澤諭吉が大隈重信にスタチスチクの仲間らを推薦した書簡がもたらしたもの/奥積 雅彦

2020/06/05

  • 奥積 雅彦(おくづみ まさひこ)

    総務省統計研究研修所教官、元国立国会図書館支部総務省統計図書館長

1.福澤諭吉と大隈重信との交流

福澤諭吉と大隈重信の出会いは、明治6(1873)年。それまで、お互いに食わず嫌い、犬猿の仲と思っていたが、周囲の人がおもしろいから会わせてみようと画策し、会ってみたら意気投合し、親密な関係となったようである*1

明治12年1月の福澤諭吉が大隈重信にあてた書簡(以下「福澤書簡」)の内容は、次ページのとおり。それによると、福澤は「慶應義塾」塾員ら13名を「スタチスチクの仲間」として推薦している。ほかに、杉亨二(すぎこうじ)、新井金作、呉文聰(くれあやとし)を「是ハ統計局の人」として書き添えている(表1)。これが何のために書かれた書簡であったかははっきりしないが、当時、福澤諭吉と大隈重信がスタチスチク(統計)に関することで密に交流していたことがうかがわれる。

ちなみに、この福澤書簡にリストアップされた16名のうちの13名は、前年の明治11年12月に創設された製表社の創立メンバーでもあった。西川俊作「慶応義塾における知的伝統 統計学─福沢諭吉から横山雅男へ」(『近代日本研究 第八巻』)によれば、この書簡を「製表社……を結成した慶應義塾の「スタチスチクの[研究]仲間」のリストを添えて、政府に統計院を設けるよう大隈重信に慫慂した」としている。ただ、そのような解釈を裏付ける資料を確認することはできなかった。大隈から福澤に人材の推薦を依頼し、それを受けて福澤が人材をリストアップしたのがこの書簡であると解することもできると考えられる。

なお、『大隈侯八十五年史 第一巻』(大隈侯八十五年史編纂会、大正15(1926)年)第5章「(四)国勢調査の嚆矢(こうし)」によれば、「君(大隈)は、明治13(1880)年初頭の頃、福澤諭吉に向かって、統計の必要について語り、慶應義塾の秀才が、統計研究に力を致すよう希望し、福澤もまた君の意を了として、統計学の進歩に寄与しようとした。蓋し同塾の新人中には統計の必要を知り同志時々会して研究していたものもあったと見える。それらの事は、福澤が君に呈した手紙に明白である」とされている。

大隈重信宛 福澤諭吉書簡(明治12 年1 月)(ルビ、句読点は筆者による)* 2
表1 福澤書簡[別紙]にリストアップされた16 名

2.福澤書簡の年次とその時代

伊藤廣一『統計歴史散歩』21頁によれば、福澤諭吉が大隈重信にあててスタチスチクの仲間を推薦した書簡について、「横山雅男は、製表社創立当時の顔ぶれと(書簡の)別紙の顔ぶれとほとんど同じであることから、明治12年(1879年)ではないかと推察しているが、もしそうであれば既に製表社は発足した後であることから、何を大隈に頼もうとしたのかはっきりしない」としている。

また、早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書(抄録)下」(早稲田大学大学史資料センター編)でも、かっこ書で「明治12年」と補足している。いずれにしても、その年次については「明治12年」とする説のみでそれ以外の年次を主張する説は存在していない。

ちなみに、総務省統計局HPの「なるほど統計学園」によれば「大隈は明治政府の第4代大蔵卿(現在の財務大臣)として財政整理に当たっているうちに正確な統計の必要を感じ、統計院の設立を建議し、自ら初代の院長に就任して統計整備の先頭に立ちました」とあり、大隈が第4代大蔵卿であったのは、明治6年10月25日~明治13年2月28日であることから、福澤書簡の「偶然に其御省之思召立(おぼしめしたち)何卒尽力為致事(なしいたすこと)に御座候(ござそうろう)」の「御省」は大蔵省であると推察され、大蔵卿である大隈重信から何らかの協力を求められて、スタチスチクの仲間らを紹介する書簡を発出したものと考えられる。

なお、大隈は福澤に統計ビューロー(統計局)の中心的役割を担うことが期待される人材の推薦を依頼し、福澤はこれを受けて「是ハ統計局の人」と注記したのではないかと推察することもできるのではないかと考えられる。

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