【特集:福澤諭吉と統計学】
呉文聰とグリム・メルヘン──日本昔話になった「狼と七匹の子やぎ」/大淵 知直
2020/06/05
1812年、『子供と家庭のメルヘン集』、いわゆるグリム兄弟のメルヘン集の初版が刊行された。その75年後の明治20年、統計学者として知られる呉文聰(くれあやとし)が『八ツ山羊(やつやぎ)』(弘文社)という小冊子を出版している。色刷りで、今でいう飛び出す絵本のような仕掛けページがあるなど、美しく楽しい小品である。この『八ツ山羊』、統計学者呉の著作でありながら、グリム・メルヘン「狼と七匹の子やぎ」を訳したものであり、極めて早い時期のグリム・メルヘンの邦訳の1つでもある。
グリム兄弟のメルヘンがまだ日本で広く知られていなかったこの時期、呉がなぜこのメルヘンを邦訳したのか、残念ながらその理由は記録に残されていない。グリム・メルヘンと出会った経緯は不明であるが、呉と外国語との結びつきは、幼い頃から強いものがある。
呉文聰は1851年、芸州浅野藩の医師、呉黄石の次子として江戸に生まれた。彼の父は、漢方、蘭方に通じ、その評判は勝安芳(海舟)の耳にも届いていたという。その父の影響で、呉は既に11、2歳には、外国語を学び始め、維新の頃にはイギリス人に学ぶなどし、20歳頃には、英語の授業が退屈という理由で大学南校(東京大学の前身のひとつ)を退学してしまうほど、英語力を既に身に付けていた。また30歳代半ばの、明治19年から20年の頃には、統計学を究めるためには英語のみでは足らぬと思いたち、ドイツ語の習得に打ち込む。「書生と云ふ年齢ではなかったが」「専心独逸学を勉強」したと述懐している。
この修学の過程において、呉は2度、慶應義塾にも学んでいる。ただし、13、4歳であった1度目は、塾の乱暴さに恐れをなし1週間で逃げ出し、20歳過ぎの2度目には、今度は、洒落者にすぎると福澤に退塾を命ぜられている。後に慶應義塾の教壇に立つ呉であるが、それはこの時の名誉回復の意味合いもあり望んだところであったという(呉文聰の生涯に関する事柄は、本人の口述による「子供たちの爲め」『呉文聰』原田高博刊、1933年による)。
『八ツ山羊』
このようにして英語とドイツ語を身に付けていく呉が、明治20年9月『八ツ山羊』を世に送り出す。統計学者としては異色な作品であるが、呉は他にも明治の改暦に際し、英語の天文学入門書を児童向けに抄訳するなど、著述対象が統計の世界のみにとどまっていたわけではない。
その呉が「専心独逸学を勉強」していた時期、『八ツ山羊』を出版する。当時グリム・メルヘンの邦訳は、ほぼ英訳本からの重訳であったが、呉のドイツ語学習期にあたることを考えると、この作品はドイツ語からの直接訳の可能性を想定できる。実際『八ツ山羊』刊行一月後、呉は統計学の専門書をドイツ語から翻訳出版しており、学習途上とはいえ、既に十二分なドイツ語力を備えていたことがわかる。
さらに、いま1つ『八ツ山羊』が直接訳であることを指し示す事柄がある。それは、呉の手によるものではないが、『八ツ山羊』の挿絵である。図1は、左半分が『八ツ山羊』の表紙、そして右半分は1884年にグリム兄弟のメルヘンなどを集めてドイツで刊行されたメルヘン集の挿絵である。図2は、『八ツ山羊』の冒頭部であるが、日独両者の類似が偶然の一致であろうはずがない。呉はこのドイツ語のメルヘン集を机上に、和訳作業を行ったのであろう。
2020年6月号
【特集:福澤諭吉と統計学】
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大淵 知直(おおぶち ともなお)
国士舘大学法学部教授