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【特集:福澤諭吉と統計学】
横山雅男と統計教育/佐藤 正広

2020/06/05

統計の「伝道者」横山雅男

さて、今日の数理統計学は今ひとまず措くとして、当時の社会統計学は、単なる学理であるに留まらず、社会的事象を対象とした統計調査を設計し、実施するという実践を不可欠の一部としていた。一般に、社会的事象を対象とする統計調査においては、統計調査を設計する人々が統計学の知識を有することは勿論のことであるが、現場で調査対象に直接、接する人々が、自分の従事する業務、すなわち統計に関してある程度の知識を持っている必要がある。また、統計調査の対象となる一般住民の側にも、統計調査というものはどういうことを自分たちに求めてくるのか、具体的に言うと統計調査にはどう回答したら良いのかに関する最低限の知識が求められる。この2つの条件を欠くところでは、統計調査(少なくとも自計式の*10)は成立しない。当時の統計学者たちは、こうした事情から、各地の現場で統計調査を担当する人々の基礎教育と、調査対象となるべき一般住民への啓蒙活動とに尽力した。以下、3つの例を挙げてみていくことにしよう。第1は、明治期に各道府県で行われた地方統計講習会、第2は、大正9年国勢調査に際して各地で行われた調査員の講習会、第3は初等教育の教科書への執筆活動である。どれをとっても横山は大活躍をしている。

はじめに、地方統計講習会について述べよう。

明治32年、共立統計学校の卒業生や、それ以前から杉亨二の門下であった統計学者たちが中心となって、「中央統計講習会」が開かれた。東京統計協会および統計学社成員の発起で、明治32年から39年に至るまでに6回講習会を開き、817名の修了者を出している。その多くは中央官庁の統計担当者や、県の書記であった。これに呼応する形で、道府県(植民地含む)レベルの講習会が開かれるようになった。いま、中央レベル(中央統計講習会と中央官庁の講習会との合計)と、道府県レベルでの講習会の参加者数をみれば、表の通りとなる。中央レベルの講習会参加者は1067人であり、引退や入れ替わりを考慮に入れると、これは中央各省庁および各道府県に2~3名程度は統計について知識のある人が配置されたであろうことを示唆する。

また、道府県レベルの講習会参加者はこの13年間で1万6千人を超える。このレベルの講習会の参加者は郡や市の書記を中心としたから、単純に考えるなら、全国の郡や市に、誰かしらは統計について知識のある人々が配置されたことを窺わせる。

表 統計講習会参加者数


横山雅男は、こうした地方の講習会で、他の統計学者と較べ、圧倒的に多くの回数、講師を務めている。彼の動きは精力的である。たとえば、1911年7月以降の横山の行動を跡づけてみると、7月11日佐賀、同19日香川、同27日徳島、8月1日宮城、同14日三重、同21日京都、9月4日沖縄、同17日大阪、10月4日北海道、同27日愛知と、ほとんど休む間もなく全国を行脚したことがわかる。幹線鉄道網がほぼ完成に近づいた時代とはいえ、新幹線も飛行機もなく、自動車の利用も一般的ではなかった当時、このような過密スケジュールをこなすのは、われわれが想像する以上に体力と気力を要する仕事であったに相違ない。

さてそれでは、地方レベルの統計講習会はどのように行われていたのだろうか。以下、明治35(1902)年に福島県で開催された講習会について紹介しておこう。

明治35年8月17日から9月5日までの20日間、各郡書記を中心とする40名の講習生を対象として、福島県第1回統計講習会は開催された。講師と担当科目は横山雅男「統計史、統計の理論・方法・機関、国勢調査法」、水科氏三郎「政治・経済および社会統計」、和田千松郎「人口および倫理統計」である*11

福島県の行政文書には、会場の確保、講師の委嘱、資料の作成、受講生の募集などの通常の事務文書の他、講習会終了時に3人の講師が出題した修了試験の問題と、それに対して提出された受講生の解答用紙、さらにその答案の採点結果の一覧表が含まれる。ここでその総てをとりあげることはできないので、横山の出題と、それに対する解答を事例として紹介しよう。

横山雅男は、修了試験の問題として、次の3題を出題している。

第一問:本邦統計の開祖は何人にして且つ今より約何年前なりや

第二問:統計観察の性質には不能的不許的不利的の事項あり各其例を挙げよ

第三問:茲に甲乙両県あり甲は人口百十万二千八百五十三人小学校生徒八千五百二十三人、乙は人口百六十万八百二十九人小学校生徒一万五百人なり。右人口に対する小学生徒の比例を得べき等式を示せ

第1問は杉亨二の名前を答えさせるもので、「何年前」の部分は履修生により「約43年前」「殆ど30年前」「今を去る凡そ50年前」とバラバラでも満点を与えている。地域の名士である郡市書記が点数をとらずに帰るのでは体面にかかわるので、この問題は横山がそこを慮って点を出すために出題したのだろう。

これと対照的に、第2問および第3問では、横山は厳格な採点をしている。第2問は、統計調査において、人の思想や信仰に立ち入った質問をしたり、予算に比して異常にこまかく、効用を欠く質問をしたりすることのないようにという調査設計上の基本的な考え方を問うものである。第3問は小学生数の、県全体の人口に対する比率を求める問題で、今日では初等算術に属するものであるが、受講生たちの答案を見るとかなり苦戦しているようである。横山の意図としては、各郡市にいて統計を扱う人々が、統計というものがどのようにして設計され、どのようにデータ処理されるかということを弁えてほしかったのであろう。

福島県の統計講習会で、もう1つ注意を促しておきたいのは、その下への広がりである。講習会に参加した郡市の書記は、自分の持ち場に帰ると、県の指示により郡レベルの講習会を開催し、自らが講師となって、町村レベルの書記に統計講習を行っているのである。なぜこのようなことが可能かというと、横山はじめ多くの講師が講義をするとき、自分の講義録(横山のばあいは『統計通論』という教科書)の一節をよみあげて講習生に書き取らせ、それに対する注を挟んで、再び本文を書き取らせるという方法をとっていたからである。筆者が大学生の頃にもまだそうした古風な講義の仕方をする教員がいたが、この方法だと、講習を終わった時点で講習生の手もとには、教科書の写しがそっくり残されることになる。彼らはそれを蒟蒻版などの方法で印刷し、町村レベルの書記を中心とした郡講習会の受講生に配付できたのである。なお、横山雅男の『統計通論』は、明治34年に出版されて以後、大正末に至るまで40数版を重ね、当時の統計関係者、特に実務家にとって、デファクト・スタンダードの教科書兼レファレンスツールになっていたと思われる。

ここで挙げた例は福島県の例に留まるが、他県でも事情は同様であろう。いずれにしても、この時期、統計講習がたこ足のように末広がりに人々を組織していったことが窺われる。その中で横山が果たした役割は大きい。

次に、国勢調査の調査員講習会について述べよう。

大正9年にわが国初の国勢調査が実施された際、統計を実施する立場にいた統計家たちは1つの難問に直面した。それは、国勢調査の、前代未聞の規模であった。この調査は当時5千万人ほどであった日本国民全員に回答を求めるものである。報告の単位である世帯の数も1千万程度と、それまでの各種の統計と較べ、群を抜いて多かった。これに伴って、調査票を配付、回収する調査員も各道府県それぞれ数千人規模で選任しなければならなかった。その中にはそれまで統計に関係したことのない人々も多く、彼らをいかに啓蒙するかが、調査の成否を左右すると考えられた。各道府県では、郡市レベルで調査員を収集し、統計に関するごく簡便な講習会を開催している。横山はここでも他の共立統計学校卒業生らとともに活躍している。

例を東京府北多摩郡にとろう。大正9年4月15日と16日の両日、府中にあった郡役所に郡内各町村の国勢調査員を集めて、講習会が開かれた。国分寺村から参加した小柳孫四郎の講義ノートの一部を覗いてみると、次のような記述がある。

翌16日横山講師曰く国勢調査は人口工業生産其の他国の存亡に係る事項を調査する事にて英語にてはセンサスと云ふ然れども我国にて今度行ふ国勢調査は主として人間が大なる本となる事之を調ぶること全ければ善政をしくことを得而して之を調査するに人口の場合にても左の別あり

一、戸籍人口 戸籍による

二、常住人口 定期間内に住するもの

三、現在人口 一秒時間の現人口

今度行ふ国勢調査はこの内の第三位なり(下略)

小柳の「業務日誌」をみると、「4月16日 郡役所にて内閣統計官横山博士来り国勢調査の講習す」と、中央から派遣された横山雅男の講義を受けたことを誇らしげに記している。1回わずか数時間、2回限りの講習でどの程度の理解が得られたか、それはわからないが、地方統計講習会よりも数段数多い人々がこういった講習を受けたことは、わが国における第1回国勢調査を成功に導く基礎となったであろう。

最後に、初等教育の教科書について述べよう。

これまでに述べてきたのは道府県、郡市町村で統計に携わる人々、また国勢調査員として調査に携わる人々に関することがらであった。しかし、横山の活躍はそれに留まらない。明治43年文部省の『高等小学読本 巻三』に、初等教育の教科書としては初めて、「第三十課 統計*12」が加えられた。例を挙げるなら、ここには次のように大数法則が説明されている。

一家に就きて見るときは、男女の数に甚だしき差あるものあり、或は全く女子のみの家なきにあらず。然るに一村に就きて調査するときは、其の差の割合、一家の如く甚だしからず。一郡は一村より、一県は一郡より、其差の割合次第に減少す。かくて全国の総数に至りては、其差の割合極めて僅少なるを見る。

統計局の古資料によれば、この原稿を執筆したのは横山雅男であり、執筆された原稿の枚数は実際に掲載された枚数の数倍におよぶ。高等小学読本の記事は、すなわち、当時の統計学者が、小学生に、統計のなんたるかを語るときのエッセンスを絞りとったものといえよう。こうして、明治43年以降、少なくとも高等小学校を卒業した住民は、どこかで「統計」という事柄について学習したことがあるということになる。逆に、これ以前の人々は、少なくとも中等学校に入らない限り、統計という物の見方に接する機会がなかったことになる。横山は、初等教育における統計教育のパイオニアでもあった。

おわりに──横山雅男と中国の統計

これまでに見てきたように、横山雅男が日本で、統計の普及に果たした役割は甚だ大きかった。初等教育からはじまり、道府県や植民地、郡市町村の統計実務家を育て、其際に、デファクト・スタンダードの教科書『統計通論』を著している。

ところで、この『統計通論』は、わが国で一般的な教科書であったばかりではなく、お隣の中国でも広く流通したことが判っている。最後にこの点に触れて、むすびに代えたいと思う。

筆者は1998年および1999年の2回にわたり、陝西省および遼寧省の省立図書館を調査する機会を得た。その際、陝西省では上海商務印書館刊行の『統計通論』(1913年、392ページ、中国語版)のカードを、また、遼寧省では同書の1909年版(第6版、訳者はは孟森)のカードを発見した。中華民国期の1910年代、横山の『統計通論』は、統計学の教科書として版を重ね、流通していたようである。この後、1920代から30年代になると、横山の影響を受けたと思われる中国人著者による統計学の教科書が出版されるようになり、この一群の著者たちは、新中国成立後も活動を続けた。しかし、1950年代末になると事態は一変する。遼寧省図書館のカードを見ると、1959年に突如『粛清資産階級統計学術思想的琉毒』という本が出版され、それを境に横山の系統を引く統計学者たちの名前は見られなくなる。おそらくパージされてしまったのであろう。代わりにあらわれるのは、ソ連科学アカデミーの統計学教科書の直訳である。

このように見ると、横山の影響は日本のみならず、日本の植民地であった台湾および朝鮮、そして、中華民国と初期の中華人民共和国にまでおよんでおり、当時の東アジア一帯に大きな影響を及ぼしたものと見ることができるのである。

〈注〉

*1 福島県行政文書より。大沼郡書記による筆記。適宜句読点を補った。

*2 たとえば、竹内啓編『統計学辞典』(1989)など。

*3 当時の統計学でも、全く確率論に依拠しなかったわけではない。横山の説明がこのようなものであったということである。横山はこの説明を昭和初めまで大学でも用いた。寺尾琢磨教授は、これをもって横山の講義に「統計の話なんて出てこない」と酷評しているが、それは時代の違いというものであろう。日本統計学会編『日本の統計学五十年』(1983、東京大学出版会)参照。

*4 杉亨二に関しては佐藤正広「杉亨二─維新を生きた蘭学者」佐藤正広編著『近代日本統計史』(2020、晃洋書房)を参照。

*5 明治20年代後半、統計学とは独立した学問なのか、それとも各種の学問を補助する方法なのかという「学問論争」があった。詳しくは宮川公男(『統計学の日本史:治国経世への願い』(2017、東京大学出版会)参照。

*6 横山雅男の略歴や、慶應義塾におけるその位置づけに関しては、西川俊作「慶応義塾における知的伝統 統計学─福沢諭吉から横山雅男へ」『近代日本研究 第八巻』(1991、慶應義塾福澤研究センター)を参照。

*7 このとき杉亨二はすでに満55歳であった。

*8 太政官制度が廃止され、内閣制度になった。このとき統計院も内閣統計局に改組された。これを機に杉亨二は退職した。

*9 杉亨二述、世良太一編『杉亨二自叙伝』(1918)奥付なし。

*10 調査統計を実施する際に、調査員が調査対象から回答を口頭で聴き取って調査票に記入する方式を「他計式」あるいは「他記式」、調査対象が調査票に自分で記入する方式を「自計式」あるいは「自記式」と呼ぶ。たとえば今日の日本の国勢調査は自計式である。

*11 福島県行政文書による。なお、水科、和田共に共立統計学校の出身者である。

*12 ちなみに第二九課は「釈迦」、第三一課は「本居宣長」であった。「統計」には約7ページが割かれている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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