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【特集:福澤諭吉と統計学】
座談会:150年のスパンで「統計学」を見る

2020/06/05

「実学の精神」と統計

馬場 福澤の複眼思考というところかなと思います。椿さんがおっしゃったように、後にカール・ピアソンは「統計というのは科学の文法だ」と言うわけですが、福澤の1つの大きな思想として「実学」というものがあろうかと思います。

福澤は「実学」という漢字に「サイヤンス」とフリガナを振っているわけですが(「慶應義塾紀事」)、社会科学であっても科学的にものを見るというのが福澤の実学であって、ではどうしたら科学的に見ることができるのかといった時に、その1つの大きな道具が統計学だったのではないか。福澤は統計学を知ったがために、どんな分野においても科学的にものを見ることができるということに気付き、実学の精神につながっていったのではないかと思うのです。

大久保 同感です。福澤が東洋の学問に欠けているのは数理学だと訴えたことは良く知られています。実学を唱える福澤にとって、統計学は非常に重要な意味を持っていたと考えられます。

実際、『福翁百話』には、「統計全体の思想」なき人とはともに文明のことを語れない、という一文があります。個々の現象だけではなく社会全体を見渡し、事実を客観的に分析する統計学的思考が重要である、と。

同時にこれはまた、社会それ自体を1つの自律的な存在として捉えることでもあります。“society” の語をどう翻訳するかが明治初年に問題になりましたが、「統計全体の思想」は、国家とは異なる、人々が作り出す自律的な社会への眼差しでもあります。

馬場 カール・ピアソンは、やはり福澤と同じような意味合いで『科学の文法』という著書を書かれたということでしょうか。

椿 そうだと思います。イギリスでは、ナイチンゲールがものすごくケトレーを崇拝していて、ゴルトンに「オックスフォードに統計学科を作れ」と言ったわけです。ナイチンゲールとダーウィンの両方がゴルトンのいとこです。そういう意味では、ダーウィニズムの影響も受けたし、統計的問題解決を発想として使います。

時代の流れの中で、統計によって社会を改革するために、いろいろな社会現象をも法則化できる、その法則化プロセスを体系化したのが、物理学者だったカール・ピアソンです。ケトレーは天文学者でしたが、カール・ピアソンも力学や幾何学の先生でした。もともと極めて物理学的センスのある方だと思うのです。だから、数理的方法を使って、社会現象にかかわる体系を描けるようになった。そういう意味で、イギリスでは20世紀前半、近代統計学、数学的な統計学が非常に発達したのだと思います。

バックルの統計学的方法論

西郷 非常に興味深くお話を伺いました。福澤が捉えていた統計ないしは統計学は、因果関係を同定するものとしての統計学なのか、あるいは現象をあるがままに捉えるための統計学という意識だったのか。どちらのほうが強かったと考えていますか。

大久保 今日的な統計理論から見てどこまで整合性がある議論ができるかどうかはわかりませんが、基本的には両面あったと考えられます。例えば『時事小言』でも、第4編では各国の国情に関するデータを比較検討しています。

しかし第5編に入ると、先述のように、ゴルトンの天賦の才能と遺伝や家系をめぐる議論へと歩を進めています。

椿 ピアソンは因果関係をあまり哲学的に捉えずに、単純に物事の順序、といったものすごく記述的な立場ですね。それがいいのかどうかはまた別問題ですが。

大久保 この点に関連して指摘すべきは、明治初年のバックル問題だと思います。『英国文明史』で歴史学の科学化を志向したバックルは、ケトレーを超えて、より哲学的かつ因果論的に統計学の成果を捉え、それを自らの文明史へと援用しました。

特にバックルは、「統計的」手法とデータを用いて、非ヨーロッパ世界であるアジアにおいては、その気候や土壌から恐怖と迷信が蔓延(はびこ)り、専制政治が行われているため、文明の発展が妨げられていると分析しました。

しかし、もしバックルの唱える自然決定論的なアジア停滞論が事実であるならば、日本を含むアジア諸国は、いつまでも未開・半開にとどまり、文明化できない運命になってしまう。この問題は明治初年の学者たちを悩ませ、『明六雑誌』でも論争へと発展します。

福澤の『文明論之概略』は、一方でバックルが用いる統計学的手法を高く評価しながら、同時にバックルが唱えるオリエンタリズムに裏打ちされた自然決定論的かつ運命論的なアジア停滞論を乗り越え、独自の文明化構想を導き出すという、極めて困難な思想課題に挑んだ書物と言えます。

椿 面白いですね。

明六社の人々と統計学ブーム

馬場 ライデン大学から帰ってきた西周と津田真道、それから西村茂樹、杉亨二、皆、明六社ですね。このように明六社の人々が中心となって統計学が非常にブームになったと思います。福澤だけではなく、彼らが皆、統計というものの魅力に気付いて、取り組むわけですね。

西郷 やはり杉亨二が日本の、いわゆる公的統計ないしは政府統計を作っていく上では非常に大きな役割を果たしたと思います。

杉は、統計に興味を持ったということだけではなくて、それを絶対に実施すべきなのだと、統計のメーカーとして、つまり、統計を作る、そしてその作った統計を使って国政を進めていくべきなのだと最初に強く意識した人です。彼がいたお蔭で、今日の日本の産業統計等の統計、そして日本の統計組織が作られていったのだと思います。

大久保 杉亨二は徳川末期、西周や津田真道、加藤弘之らとともに、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に所属していました。蕃書調所は、徳川政権が西洋事情の調査と洋学教育を目的に設立した学問機関であり、多くの優れた蘭学者・洋学者が登用されました。杉は自伝で当時のことを次のように回顧しています。

杉によれば、彼はオランダの新聞『ロッテルダム・コーラント』を読み、ヨーロッパには統計というものがあると知って、面白いと思っていた。そこに西と津田がオランダ留学から帰ってきて、ライデン大学教授フィッセリングから学んだオランダ語の統計学講義ノートを見せます。杉はそれを読んで、一気に統計学に深入りしたと言います。

フィッセリングは日本では法学者として知られますが、実は当時のオランダを代表する統計学者・経済学者でした。隣国ベルギーでケトレーが統計学を大成させ、政府統計局を創設したことに影響を受け、オランダでも政治的に中立な政府統計局を作ろうという動きが高まります。フィッセリングは、その活動の中核にいました。

フィッセリングの統計学講義の講義ノートは、その後、1874(明治7)年に津田の手で翻訳されますが、杉亨二はすでに幕末期に、西と津田を通じて、原本のオランダ語原稿に触れていたのです。そうして、日本も統計局が必要であると考えるに至った杉は、明治期に入り、政表課の創設を主導するのです。

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