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【特集:福澤諭吉と統計学】
座談会:150年のスパンで「統計学」を見る

2020/06/05

呉文聰と蕃書調所からの文化

馬場 それでは次に、福澤の門下生やその周辺の話に移りたいと思います。

先ほど保険の話もありましたが、塾員の阿部泰蔵が明治生命を創る。そのように福澤は門下生に統計を生かした仕事をさせている面もある。それから、1890(明治23)年に慶應の大学部ができるわけですが、開設当初から理財科には「統計学」という科目を設置し、呉文聰、横山雅男といった人物に講師を務めさせています。

横山雅男は杉が設立した共立統計学校の卒業生で、スタチスチック社などで統計の普及に尽力した人物です。そういう点で福澤と慶應義塾周辺には統計に深く関与していた人物も多かったのではないかと思います。

椿 杉亨二とともに国勢調査に対して非常に影響を与えたのが呉文聰だということは私も承知していますが、明六社の人々につながる源泉は、蕃書調所というところが大変大きな影響を与えていますよね。

呉文聰は蕃書調所の主席教授だった箕作阮甫(みつくりげんぽ)の孫です。そういう意味でも、そこの文化が大きな影響を与えているのではないか。そして、そこに先ほどから出てきている統計的方法を社会にどうやって使うかという話が脈々とあって、明治の初期に非常に優秀な統計学者が出たのではないかと感じるんですね。呉は福澤先生の弟子であるとともに、幕府の洋学所以来の伝統の文化に触れていると思うのです。

馬場 椿さんは呉文聰の理論家としての側面を再評価されているとお伺いしましたが。

椿 7、8年前に、自殺関係の研究者の方々と日本の「自殺統計」を作るという機会がありました。日本は自殺研究がタブーで、「自殺統計」自体の研究はほとんどなかったという話を受けたわけです。ところが、調べると呉文聰の論文にずばり「自殺統計」という論文がありました。

それは1899(明治32)年の「統計実話」というものの中に出てくるのですが、自殺を分類して文化的影響を考察し、そして各国の自殺比較をやっている。しかも日本において1890(明治23)年から5カ年間、自殺を男女別、年齢・階層別、それから17原因別に分けて統計表を作っています。

これには非常に感心して、呉先生の『理論統計学』という本を読みました。これはまさに日本の明治初期の先人の方々が統計というものを社会で生かすために学んだことを、一番よくまとめているのではないかという印象を持ちました。

どういう現象に対して統計的なアプローチをすべきとか、統計というものを考えるときに、社会全体の、今で言う母集団全体に働く原因系と、むしろ一部の集団に特異的な原因系とに分類して考えなければいけないなど、今、読んでもよくできていて面白い。

国勢調査100年の節目に

馬場 呉文聰の話が出ましたが、2020年は第21回の国勢調査が行われる年です。第1回が1920(大正9)年ですから、ちょうど今年が「国勢調査100年」に当たります。第1回は原敬首相の時でした。その実現を見ずして杉亨二も呉文聰も亡くなっているのですが、国勢調査をやらなければいけない、と非常に頑張ったのが杉亨二であり呉文聰です。呉文聰はアメリカに視察に行き、センサス(国勢調査)の実態を調べ、その実現に尽力しました。

その姿勢は先ほどの大隈にもつながると思います。なぜ国勢調査をやらなければいけないのかと言えば、まずはきちんと統計をとって国の実情を把握することが全ての始まりである、という考えなのだと思うのです。

冒頭でお話が出ましたように、残念なことに、国勢調査から100年がたち、公的統計の重要性が軽んじられるような事件も最近は起こっています。現代において、やはりもう一度、呉、杉たちの国勢調査への思いを見つめ直して、公的統計の重要性を認識する契機とするべきであると感じています。

西郷さんは公的統計にもかかわるお立場からどのようにお考えですか。

西郷 現在、公的統計の作成が今までと同じようにはいかないことは間違いないことだと思います。

つまり、今までは統計を取るということは、すべて国がそれを行うという形でした。少なくとも今までの公的統計、政府統計というのは、今の言葉で言うと「上から目線」で、為政者が統計を取るという形で進んできた面があると思います。

しかし、現在、「為政者が統計を取る」というやり方だけでは、いろいろな形の公的統計が作りにくくなっている。つまりデータを提供する側の協力が、その形では厳しくなっている面があると思います。

一方で、必要とされる統計の種類や構造は科学の進歩に合わせてどんどん複雑になっています。そういった中で将来的に公的統計をずっと作っていくのであれば、作成者側もニーズの実態に合わせて、例えば国勢調査もインターネット回答を可能にするとか、プライバシーを守りつつ正確な統計を作るといったことが必要でしょう。

大久保 私が注目したのは「国勢」という言葉です。国勢調査の原語にあたるPopulation census には、どこにも「国」というものが入っていません。佐藤正広先生の著書『国勢調査と近代日本』によると、1920年に国勢調査が実施される際、当時の統計家たちが、政治家を説得し国家予算を獲得するために、あえて国の形勢や勢力、国富の調査を連想させる「国勢」の語を用いたとのことです。

そしてこの「国勢」という言葉は、明治初期から「表記」「政表」「統計」とともに「スタチスチク」の翻訳語としても使われていました。

ただ今、西郷さんから、公的統計が1つの分岐点に来ているというお話もありました。これまで「国勢調査」は、100年前、さらには150年前の近代国家形成の出発点より、「国家」の「情勢」「勢力」に関わる学知としての側面を持ってきました。そうした国家のあり方、国のかたち、それ自体が曲がり角を迎えているとするならば、これからどう考えていけばよいのか。

他方で、もう一度その出発点に立ち戻るならば、杉亨二をはじめ明治の先人たちには、新しい国家を作るためには完全な統計表を作る必要があり、政治的に中立な立場から公正に調査し、その成果を広く国民に公表せねばならないと強く主張しました。彼らは皆、高い理念と情熱を持ち、統計こそ近代国家建設の要諦であると訴えました。

日本の政府統計の信頼性が揺らいでいる今日、近代国家の礎を作った彼らの言葉は重く響きます。

椿 明治の先人の方々が統計をこれだけ作るというのは、今に比べたらものすごい努力でデータを集められたのでしょう。しかも、そのデータで何をするかという政策を、杉先生や呉先生は考えていらしたと思うのです。

国勢調査から100年たち、データサイエンスとかビッグデータの時代となっている時に、あらためてこのデータで一体何ができるか。国勢調査や公的統計を使ってわれわれは何をするのか、どういう政策を導くのかという活用をはっきりさせる必要があるということだと思います。逆に当時の、それこそ明六社以来の方々が持っていたような知恵をさらに強化していくチャンスだと思っているのです。

夏目漱石と統計

馬場 椿さんは夏目漱石と統計との関わりについてもお詳しいですね。少し話していただけますか。

椿 もちろん漱石は統計学者でも何でもないわけですが、カール・ピアソンの『科学の文法』をきちんと読んでいて、ロンドンの留学時代に「自分は文学評論を科学にしてみせるぞ」と決意するわけです。

彼のロンドン時代のノートを見ると、「あるハイポセシス(仮説)が有用なるはそのハイポセシスがバリッド(有効)であるプロバビリティ(確率)に、プロポーショナル(比例して)に有用である」とか、すごいことがいろいろ書いてあるし、「データ」という言葉もたくさん出てきます。

彼はきちんとした事実を積み上げていけば、文学とか文学評論をデザインすること自身が一種の科学になると考えていた。しかもカール・ピアソンを批判もしていて、カール・ピアソンは事実の認識という立場では非常に素晴らしい体系を作ったけれど、これをアートという面で考えると、アートは必ずしも秩序を立ててノイズを減らすことが目的ではない、と指摘しているんですよね。

漱石は、『科学の文法』を日本に紹介し、寺田寅彦など弟子たちに紹介したというだけでも大変面白い影響を日本に与えた方だと思います。

馬場 それはやはり統計学の魅力の為せる業で、政治家であったり文学者であったり、いろいろな人たちが統計の持っている魅力に気付いた、1つの表れなのでしょうね。

椿 そうでしょうね。先ほどの先達よりは漱石は少し後の時代になりますが、すごくその熱を感じます。

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