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【特集:ポピュリズムをどう捉えるか】
座談会:デモクラシーの変容をポピュリズムから読み解く

2020/02/05

ポピュリズムをどう定義するか

岡山 ポピュリズムというのは、言葉としては皆知っている。しかし、いざ分析の概念として使おうとすると、何かもやもやしていて、かつ指示している対象も違う。これだけ人口に膾炙するようになった後でも、新聞などでは相変わらず「大衆迎合主義」と訳していたりする。そうすると、今の政治を考える時に、ポピュリズムというのはどういう概念として、何を指すものとして考えたらよいと思われますか。

水島 それこそ今日は良い機会なので、逆にここで定義をつくってしまったらと思うのです(笑)。

ただ、欧米の文献でもカス・ミュデの定義でとりあえずいこう、ということで収斂している感じがしますね。カス・ミュデの定義を要約すると、「社会をエリートと人民(ピープル)に峻別した上で、エリートは邪悪であり、ピープルは正しい存在であり、現在の政治は邪悪なエリートによって支配されていて、このエリート支配をピープルのデモクラティックな働きによってひっくり返して、人民意思を実現させようという動きである」でしょうか。

おそらく政治学では、この定義が一番有力なのではないかと思うのですが。

稗田 そうですね。確かに今はカス・ミュデのideational definition(理念的定義)が主流になってきつつあります。ただ、ラテンアメリカの経験からカート・ウェイランドなどは、ポピュリズムは政治戦略であると定義しています。

政治家と有権者の結びつき方にはいくつかのタイプがあって、1つは政党による媒介、つまり、労働組合や財界、業界といった、社会の中の様々な集団が、自分たちにとって好ましい政策を提供する政党に対して支持を交換するという形で政治家と有権者が結びつくタイプ。また恩顧主義というのもあります。政治家がパトロンで支持者がクライアントとなり、公共事業などを直接有権者に提供する代わりに、クライアントはパトロンに支持を与える。

しかし、それらとは違って、ポピュリズム型の結びつき方があります。カリスマ的なリーダーが人々を動員する戦略として、組織されていない有権者に直接、無媒介で結びつくことで権力を得て、それを維持しようとする結びつきです。これが政治戦略型のポピュリズムの定義です。

この「動員をする政治戦略」としてのポピュリズム定義の場合、カリスマ的なリーダーが必要です。リーダーは、エリート対反エリートという二分法をつくることによって、直接有権者と結びついて動員するわけです。僕の研究でも2つの定義が競っていますが、必ずしもお互いの想定する具体的なポピュリズム像が重なり合わないところがあります。

岡山 リーダーには、カス・ミュデの定義は割と当てはまるけれど、有権者のほうは必ずしもそういう形で動員されているわけではない。どうやら定義を1つに絞るのは難しそうですね。

吉田 今あったように、ポピュリズムは実際には記述概念でもないし、分析概念でもありません。ポピュリストと呼ばれている政治家、あるいはpopulist attitude(ポピュリスト的態度)を持っている有権者もそうですが、「自分がポピュリストだ」と言うことは基本的にはないわけです。

言い換えれば、ポピュリズム、あるいはポピュリストという言葉が分かりにくいのは、それが政治における闘争用語、相手を貶めるための言葉だからです。ある領域のエリートが、自分が好ましくないと思うものをポピュリズムと呼称する。だから、何がポピュリズムとされるかは文脈やアクターに応じて変わってきてしまいます。

恐らく政治学におけるポピュリズム研究の最初の本である1969年のイオネスクとゲルナーの『ポピュリズム』には、アメリカ人民党もナロードニキ運動も入っているし、マッカーシズムも入っている。つまり、当時の政治、経済、文化的なエリートにとって、新規のもの、未知の政治勢力をポピュリズムと呼び慣わす傾向があり、それが今日でも続いている。

裏を返すと、ポピュリズムを内在的に理解するためには、何がポピュリズムとしてこれまで名指しされてきたのか、その目線がどういう共通項を持っているのかなど、言説分析的な手法が必要になります。

少し前にジドロンとボニコースキーというハーバード大学の若い政治学者二人が、ポピュリズム研究と称してきた研究の共通項は何かという研究をしています。ここでは、稗田さんがおっしゃったように、一つは、政治戦略として見るウェイランド的な形と、もう1つは特定の政治のスタイルを持った指導者個人、さらに政治理念としてみるアプローチがあるとされています。ポピュリズム研究はこの三つのパターンに分けられますが、いずれの対象でも共通しているのは、ピープル(人民)と呼ばれる一体的な対象を措定して、「エリートが道徳的に腐敗している」と攻撃をして、政治のニッチ市場を開拓するものであるとされています。この点は現在のポピュリズム政治でも共通して観察されるものですね。

ポピュリズムの二面性

岡山 水島さんの本にも「民主主義の敵か、改革の希望か」というサブタイトルが付いていますが、ポピュリズムは、民主主義の味方なのか敵なのか、という価値の問題がありますね。

水島 おっしゃったように、ポピュリストというのは、特に政治空間の中では、これまでは基本的に否定的に使われていたわけですが、最近は「左派ポピュリズム」ということを自ら掲げて、新自由主義のもとで進む政治経済権力の独占に抵抗しようという動きも出てきているわけです。

また、アメリカでは、ポピュリズムの中に一種の人民主義的な部分、つまりエリートではなくてピープルが政治の主人公だという形で、現状を批判する際に、ポピュリズムという言葉が一種のポジティブな意味合いを持って使い得るという動きも出ているので、その点はポピュリズムの二面性を表しているなという感じはしますね。

吉田 基本的にヨーロッパと日本ではポピュリズムというのはネガティブに捉えられるんですね。一方、アメリカ合衆国と南米は必ずしもそうではない。ここには政治体制の変動やファシスト期を経験したかどうかなどで、ポピュリズムという語のある種の含意、ニュアンスの違いがある。

カーター大統領がポピュリストと呼ばれた時期もあるし、オバマ自身も肯定的にポピュリズムという言葉を使っています。アメリカ大陸とヨーロッパで用いられる文脈の違いも考慮に入れないとなりません。

稗田 社会運動としてのポピュリズムをポピュリズムと呼ぶかどうかというところもありますね。政治戦略としてポピュリズムを定義した場合、リーダーが有権者を動員する戦略を指すので、例えばアメリカのティーパーティー運動をポピュリズムと呼ぶかどうか、定義によって変わってきます。

岡山 分析概念という話でいうと、稗田さんの研究は、ポピュリズムをなるべく実証的に分析しようという意識が強く表れたものですが、こうした概念的な論争を踏まえながら実証分析にもっていく際に困難はありますか。

稗田 やはり非常に難しいです。例えばカス・ミュデがポピュリズムを「実質に乏しいイデオロギー」と定義していますが、そこには3つの要素があるわけです。腐敗したエリート対善良な人民であるという「反エリート主義」、人民の意向こそが反映されるべきであるという「人民主権」論、しかもその主権を持っているとされる人民は同質的であるという「人民の同質性」の3つですね。

ウトゥケという人たちの研究では、これまでの研究はいま挙げた反エリート主義、人民主権、同質性の質問項目を全部ごっちゃにして、平均値を出してポピュリスト的態度が高いだの、低いだのと言っている、と批判しています。

でも、ミュデの言った定義の3つは必要条件であって、3つすべてが揃って初めてポピュリズムとなるので、それをごっちゃにして平均すると、反エリート主義だけ強くて、ほかの「人民の同質性」とかの値が低い人もポピュリストとして扱ってしまうことになりかねない。

実際にわれわれの研究でも、反エリート主義と人民主権論と人民の同質性を別々に想定すると、反エリート主義が強い人はこの政党を支持するが、だからといってその政党を支持する人は必ずしも人民の同質性を信じていないといった齟齬が起きる。そうすると、ではこの人たちをポピュリストと呼んでいいのか、この政党はポピュリストに支持されていると言っていいのか、という問題が生じるのですね。

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