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【特集:『帝室論』をめぐって】
小泉信三が見た皇太子──全集未収録の田島道治宛小泉信三書簡より

2019/05/07

明仁皇太子殿下(現上皇陛下)と御教育参与、侍従たち(前列左から2人目が小泉信三、1人おいて殿下)。(慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 編・白石 大輝(しらいし だいき)

    慶應義塾福澤研究センター調査員

戦時期を跨いで長きに亘り慶應義塾長を務めた小泉信三は、昭和24(1949)年2月26日、皇太子明仁親王(現・上皇)の教育に関する責任者である東宮御教育常時参与に就任した。その就任前後から多くの書簡を交わすようになった人物として、当時宮内庁長官であった田島道治が挙げられる。

小泉の田島宛書簡には、皇太子の様子を詳細に伝えるものが多い。田島宛書簡は田島家が所蔵するものだけで59通存在するが、『小泉信三全集』(1967—72年刊)所収のものはそのうち20通のみである。全集未掲載の書簡のうち、3通(うち1通は下書き原稿)は平成20(2008)年に慶應義塾で開催された「生誕120年記念 小泉信三展」(展示品は『アルバム小泉信三』[慶應義塾大学出版会、2009年]に掲載)で紹介されたが、皇太子の外遊先での様子を報告するものを中心に、知られていない書簡も多く存在する。ここでは、全集、前回の小泉展を含めて公開されていない6通の書簡(①〜⑥)を紹介したい。

これらの書簡からは、小泉の皇太子に対する強い期待や、成長を喜ぶ様子が窺える。特に人との接し方を伝える記述が多く、皇太子の他人を気遣い、積極的にコミュニケーションを図ろうとする姿勢が報告されている。小泉が「御進講覚書」の最後に「Good mannerの模範たれ」と記し、彼が教材として使用した福澤諭吉の『帝室論』には「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」と述べられているように、小泉は国民の気品を高める新しい時代の天皇の御教育に心を尽くした。皇太子はこうした小泉の期待に応え、新時代の天皇となる準備を重ねっていったのである。

なお、読みやすさに配慮して、促音は小さい文字に改め、濁点、句読点、ふりがなを補った。脱字、語注は〔 〕で示す。また、原文にはない字下げを行った。
ONLINE版では読みやすさに配慮して漢数字を算用数字に変更してある。

①東宮大夫就任を断る(昭和23年8月20日)

拝啓 御手紙拝見しました。

御手紙によるといかにも小生が好条件を具へてゐるやうですが、たしかに御ヒイキの色目がねも加はってゐます。此際無用の謙遜などは愚かな事で、僕はそんな無益な手間を人にかけるつもりは全くありません。

何としても健康が要件の第一と思ひます。

僕は何の拘束もなく、読みたい、書きたいときに自宅で読み書きをするといふのは差支ない状態に居りますが、勤務は無理です。

先日もヴァイニング夫人の例から僕の為めに特別の計ひをしても好いといふ御話もありましたが、それは悪例を開くもので、小生は一の団体に勤務するものは上下を問はず精励恪勤、殊に上に立つものは小なりと雖も、先んじて労し後れて楽む心得が肝要で、かくてこそめて人心を引き締め、且つ鼓舞することが出来ると考へます。小生は月一回の顧問会に、自分だけ小金井〔皇太子御仮寓所と学習院中等科があった〕まで自動車を頂戴することさへ心苦しく思ってゐるのです。顧問のやうな謂はゞ客分扱ひのものでさへさうであるのに、況や身を以て範を上下に示さなければならぬといふ位置のものが、全心全力の50%か70%しか出さぬやうな勤めぶりをして、よし他人がそれを許すとしても自分は到底それに甘んずることは出来ません。先日差し上げました手紙の一節に「……小生としては加減をしながら、常に言訳をしながら、不充分に職務を遂行するといふことは到底堪へられません」と書いたのは此意味でありました。その時にもヴァイニング夫人の例が出ましたので、実は考へたのです。僕が小心であるためかも知れませんが、小生は常に格外の優遇、格外のいたはりの如きものを受けることに対し特別にnervousでヒドクそれを厭ひます。仮りに貴兄に小生を格別扱ひにする価値ありとは御認め下されたところで、それを一々人に納得させてゐる訳には行かず、よし人が納得してくれても僕自身はさういふ位置に置かれることを人一倍嫌ふのです。のみならず実に人心は意外のところから弛み始めるもので、仮りに小生が或役目についてその役目が当然受ける待遇以上の好遇、或は寛遇を受けるとなれば、その影響は決して宜しくなひと思ひます。少くも小生自身斯る場合、己れの発言の権威を自ら疑惧する性質です。或はそれを小節に拘泥すると御考へになりませう。しかし宮内府に於ける貴兄は、今後小節も忽にすべからざることをも他に御示教なさるべき御考へではないかと拝察するのです。さういふ点を段々考へて見ると、小生は折角の御思召にも拘らず、自ら不適任と思ひます。

先日差上げた右手紙から少しも前進してゐないことを申訳なく思ひます。けれども御諒察下さるやうに、先日手紙を書く前には随分考へたのです。
M先生Ⅰ先生にも小生の申すところを場合によりては御伝へ下さい。M先生とは未だよく御話をしたことはありませんが、Ⅰ先生は小生の神経質に或程度の了解を持つて下さるのではなひかと考へてゐます。

昨日少し動きすぎたら、夜少し不快で、今日はおとなしくしてゐます。要するにconvalescent〔回復期の患者〕は未だ出る幕ではないと存じます。

8月20日
小泉信三

田島道治様

(解説)東宮大夫就任の断り状。東宮大夫は皇太子家の家政機関である東宮職の長であり、小泉は田島から就任の打診を受け、健康状態が万全ではない中で職務を全うできないことを嫌い、固辞し続けた。依頼を丁重に断る書簡が2通残っており、これはそのうちの1通である。小泉は、妥協の末に正式な官職ではない東宮御教育常時参与に就くが、田島はこのために、少なくとも9回は小泉を訪問して「精魂込めた執拗さ」(田島道治「小泉君を憶う」『心』19巻7号)で説得したという。ヴァイニング夫人(Elizabeth Janet Gray Vining)は皇太子の英語教師。学習院中等科は皇太子が進学する昭和21(1946)年に、戦災による被害のため目白から小金井に移り、皇太子は高等科在学中より同地の学生寮(清明寮)で過ごした。「M先生」と「Ⅰ先生」はそれぞれ商法学者で小泉の義兄の松本烝治、元日銀総裁で慶應義塾評議員会議長を務めた池田成彬と思われる。

田島道治宛小泉信三書簡のうち一通(田島圭介氏蔵)                          
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