【特集:『帝室論』をめぐって】
座談会: 『帝室論』から読み解く象徴天皇制
2019/05/07
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君塚 直隆(きみづか なおたか)
関東学院大学国際文化学部教授
1967年生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授等を経て、2015年より現職。著書に『ジョージ5世』『立憲君主制の現在』等。
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河西 秀哉(かわにし ひでや)
名古屋大学大学院人文学研究科准教授
1977年生まれ。名古屋大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(歴史学)。神戸女学院大学文学部准教授等を経て、2018年より現職。専門は日本史、象徴天皇制。著書に『「象徴天皇」の戦後史』、『近代天皇制から象徴天皇制へ』等。
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都倉 武之(司会)(とくら たけゆき)
慶應義塾福澤研究センター准教授
塾員(2002政、04法修)。1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代日本政治史。武蔵野学院大学専任講師を経て2011年より現職。『福沢諭吉の思想と近代化構想』(共著)、『小泉信三エッセイ選』(編集)等。
『帝室論』の射程
都倉 この5月1日に今上天皇(明仁天皇、現上皇。以下座談会開催日の3月15日の呼称とする)が退位、皇太子(徳仁皇太子)が即位し、元号も変わります。このような状況の中、近代日本における皇室のあり方、とりわけ象徴天皇制を考える上で少なからぬ影響があったとされる、福澤諭吉の『帝室論』をめぐって、皆様と議論ができればと思います。
戦後、慶應義塾の元塾長であった小泉信三が東宮御教育参与という形で明仁皇太子の教育掛を務める中で、『帝室論』を用いたことはよく知られています。2008年に三田キャンパスで行われた「生誕120年記念 小泉信三展」という展覧会では行幸啓があり、私もご案内に加わらせていただきました。そのときのご様子で小泉の存在が天皇皇后両陛下にもたらしているインパクト、その大きさを感じました。
『帝室論』は明治15(1882)年に、福澤が創刊して間もない『時事新報』に連載し、その後、単行本として刊行されました。この時期にこの本が書かれた時代背景について、まず君塚さん、いかがでしょうか。
君塚 『帝室論』の前年の明治14(1881)年に政変がありました。その頃の日本はプロイセン型の憲法体制でいくのか、あるいはイギリス型でいくのかということで議論がありましたが、大隈重信など「イギリス型でいこう」と言っていた人たちが政権から追い出されて、伊藤博文などを中心にプロイセン型でいくことになりました。
伊藤はちょうど明治15年からプロイセン、オーストリアに出かけ、シュタインの下に留学して後の大日本帝国憲法の基を築いていきます。
帝室、皇室はどうあるべきかということは、この書が刊行された明治15年という時点も重要だと思いますが、今回あらためて読んでみますと、視野が広くて長い。戦後、小泉信三が当時の明仁皇太子の教育に際してテキストとして使った意図も見えてくるように思います。
もちろん、福澤が書いた時点でその後の時代がどうなるかは分からなかったと思いますが、今日的な立憲君主制というものも、かなり視野に入れているのではないかと感じます。福澤自身が幕末にアメリカやヨーロッパへ行き、そこで吸収してきたものが、かなり散りばめられているような印象を持っています。
都倉 実際に明治憲法で規定された天皇のあり方は、福澤の描いたものとは違う形になりますが、井上さんは福澤の『帝室論』と日本の国内政治状況との関係をどのように捉えていらっしゃいますか。
井上 『帝室論』の出る前年の明治14年10月12日に国会開設の詔書が発せられます。明治23(1890)年には国会が開設されることになりました。福澤は『帝室論』の中で、国会が開設されると政党軋轢の不幸が訪れる、党派政治となるだろうと予測しています。
実際に『帝室論』が出た明治15年には立憲改進党や立憲帝政党ができ、他方でこの年の4月、自由党の板垣退助が遊説中に襲われるという出来事が起きます。国会が開設される前から政党軋轢の不幸の兆しは現れています。
国会開設の機運の高まりの中で、政党政治が中心になるのは避け難いけれど、政党を超えて日本という国を統合する主体は何なのかという問題に対して、この『帝室論』の中で帝室の重要性が繰り返し指摘されていると思います。
冒頭のところから「帝室は政治社外のものなり」、そして「帝室は万機を統(すぶ)るものなり、万機に当(あた)るものに非ず」と言い切っているところに、はっきり出ていると思います。この本の中で、福澤は、一国の政治ははなはだ殺風景であると言っていますが、政党政治に伴う混乱の調整をどのようにしていくかを考えたとき、その上にある帝室の存在の重要性を指摘しています。政党政治が持っている避け難い問題の解決を考えるということであれば、それは今日の問題でもあると思いました。
都倉 福澤は「万年の春」、あるいは「(皇室は)一国の緩和力」という表現を使って、天皇が学問技芸といった文化の擁護者となるべきことを強調したわけですが、この福澤の議論は、果たして当時の明治の日本に実際に根づく可能性はあったのでしょうか。
河西 皆さんがおっしゃったように、『帝室論』の主旨は、当時、政党政治ができ始め、国会開設ということが現実のものになり始める中で、自分の政党に皇室を取り込むことによって勢力を拡大しようとする動きがあることに対して、それは皇室の尊厳を傷つけるのだ、と主張したのだと思います。
そして、いかに政治と切り離して、政治に取り込まれないような皇室にするか。そのときに生み出されたものの1つが文化的な側面だと思います。
明治10年代というのは、皇室と政治との関わりが薄かった前近代の記憶のある人たちがまだ普通にいたので、この主張は比較的受け入れやすかったのではないでしょうか。福澤の言っていることはそんなに突飛なことではなく、京都時代の皇室のことを知っているような人からすれば、文化的な側面というのは、それなりに納得できたのではないかと思います。
井上 他方で、明治時代は幕末に結ばされた不平等条約を改正しなければいけないという国家的な独立の危機が共有されていました。その限りでは、政党がそれぞれ政策を異にしていても、国家的な独立を確保するために、天皇を中心として、協力しなければならないという意識は共有されていたと思います。
国家の上に立つのが帝室であり、端的に言うと明治天皇という、1人の象徴的な人物の下でまとまることによって、欧米に対して自立を主張していこうということです。その後の大正・戦前昭和には、このような意見の一致は難しくなってきました。しかし、この時代はこういう考えが無理だったということはないと思います。
都倉 福澤の『時事新報』における言説は、今でもどう解釈するかということで議論が多いのですが、この『帝室論』も、長く将来にわたって読ませるつもりで書いたものなのか、そのときの時事的な局面を捉えて言っているものなのか。
時事論として見たときには、自由党や改進党の登場に対抗して御用政党の立憲帝政党(明治15年結党、翌年解散)という党が出てきて、天皇主権をうたい、帝室の尊厳を一番大事にしているのはわれわれの政党で、他の政党はいわば不忠だと主張し始めた。これに対して、天皇の権威を党派が借りることを、直接的には批判しているわけです。
しかし、それに加えてこの機会に比較的に長い視野で通用する皇室論を説こうともしている。福澤という人は、否定することができないものとして、天皇の権威が利用されることへの恐ろしさに、トラウマというか、生理的嫌悪のようなものを持っていた印象を私は持っています。これは幕末の尊皇攘夷のすさまじい嵐と、暗殺の危険にさらされた実体験に裏打ちされたものではないかと思います。
福澤にはもう1つ、『尊王論』(明治21年)という著作があり、これはどちらかといえば、福澤の保守化を指摘する批判材料になっているのですが、この本で福澤は、天皇の神聖性は何に由来するかと問うていて、それは「古さ」の1点だというんですね。一番古い家だから大事だ、と。世の中の至宝と呼ばれるものは、だいたい何の役にも立たないがただ古いことをもって大事にされる、皇室もそれだと。これは時事論としては発布が迫った明治憲法への牽制だと思われます。
『帝室論』と『尊王論』をセットで考えたときに、一貫しているのは、天皇の権威を神話などに由来する神権的、宗教的なところから説き起こすのではなく、いわば唯物的に把握しようとする点です。天皇の神性が絶対的な権威となり、政治を左右する可能性への危険性の直感のようなものを福澤は持っていたのではないかと思うのです。
2019年5月号
【特集:『帝室論』をめぐって】
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井上 寿一(いのうえ としかず)
学習院大学学長、同大学法学部教授
1956年生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。1993年学習院大学法学部教授。同法学部長等を歴任し、2014年より学習院大学学長。専門は日本政治外交史。著書に『危機のなかの協調外交』『吉田茂と昭和史』等。