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【特集:『帝室論』をめぐって】
座談会: 『帝室論』から読み解く象徴天皇制

2019/05/07

象徴天皇制の原型

河西 第1次世界大戦後、ドイツ、オーストリアなどで君主制が崩壊し、君主制の世界的な危機が訪れ、それが日本にも波及し、日本の天皇制も再編しなければいけないという動きが出てきます。

吉野作造もそうですが、私が注目した1人に東京市長だった永田秀次郎がいます。彼が『平易なる皇室論』というベストセラーになる本を書くのです。皇室の改革を主張し解説する内容ですが、その中に「かの福澤も『帝室論』でこう言っている」というような箇所がある。このように大正時代の皇室の改革という動きの際も、『帝室論』が理論的な根拠にされています。

そういう本が、人口に膾炙し、大正期の人にも「福澤も書いていた」として、まさに権威として使われる。そのように『帝室論』には一定の可能性と影響力があったということなのではないかと思います。

この大正時代の天皇制の再編というのは、政党政治が上手くいけば基本的に天皇自体はそれほど政治には関わらず、社会的な慈善活動などをして、ヨーロッパの倒れた君主国とは違う形で継続していくという考え方です。これはある時期まで、現実にも上手くいっていたのではないかと思います。

都倉 明治憲法下での文化の擁護者としての天皇という側面についてはどのように見ていらっしゃいますか。

河西 今の象徴天皇制の原型に近いものと私は見ています。象徴天皇制というのは必ずしも戦後になって突然出てきたわけではなく、今言ったように第1次世界大戦後の再編の中で出てきたものがその後、戦後に花開いていると思うのです。そこで『帝室論』が参照されているということは、本書には象徴天皇制の原型としての意味合いもあるのかなという気がしています。

都倉 和辻哲郎や津田左右吉なども戦前に文化的な中心としての天皇ということを言い、その際に福澤に言及しているというようなこともありますね。

福澤研究の世界でも、『帝室論』は戦前から比較的認知されており、昭和7(1932)年に出た『福澤諭吉伝』(石河幹明著)でも一節を割いて解説しています。表現は少しぼんやりさせていますが、政治的な問題から超越した存在としての天皇というものを福澤が提唱した、と位置づけられています。

ただ、その後、昭和10年代に入りますと、慶應の学生向け副読本『福澤文選』に『帝室論』が入っていたのが、検閲で時局にそぐわないとして削除を要求されています。

一方、福澤自身が『帝室論』についてどう考えていたのかというのは記録があまり残っていないのですが、興味深いのは、福澤が『帝室論』を書いたときに漢詩をつくっていることです。その1つは、楠公のことを皆、勤皇と言うけれど、私は今回12編からなる『帝室論』を書いた、楠公と私のどちらが勤皇か、という内容で、最後に「嗚呼、忠臣福澤の筆」とあります(笑)。この漢詩は、関係者が秘蔵して戦後まで公開されませんでした。

時事問題が契機ではあるけれども、福澤は、明治日本の独立と、帝室の健全な共存の実現に、ある種の信念を持っていたと感じさせられます。

昭和天皇とジョージ5世

都倉 敗戦を経て憲法が変わり、戦後、福澤の『帝室論』が再び注目されるようになります。河西さんの理解では、どのように戦後の政治史に再登場してくると見ていらっしゃいますか。

河西 戦後の象徴天皇制をつくる時期というのは、大正期の経験を有していた人たちが政治を担っていたわけです。彼らは、戦時期は軍部などによって、政治の中心から追いやられていた人々です。戦時中の「国体」に対する批判的な眼がある。天皇の権限を抑える大正期の仕組みがよいと考えます。また、昭和天皇は戦犯として追及される可能性もあった。天皇の政治性をできるだけ消し去る必要があった。

そこでラディカルに、つまり、『帝室論』の後半に書かれている文化的な部分を国内外に強調することで、「天皇は政治や軍事に関わっていない」と言いたかったのではないでしょうか。

一方で政治家たちは、必ずしも天皇がまったく政治に関与してはいけない、とも思っていなかったわけです。これはバジョットの考え方です。そしてそれは、『帝室論』の前半部分が保守政治家に影響を与えているのではないかと思います。

君塚 そうですね。バジョットの影響というのは、『帝室論』もそうですし、戦後の昭和天皇、今上陛下の時代まで通奏低音として流れているような気がします。昭和天皇は皇太子時代、第1次大戦が終わった直後、ヨーロッパがまだ傷ついている最中の大正10(1921)年5月からヨーロッパを歴訪します。一番初めにイギリスを訪れてジョージ5世から親しく接せられる。そのときにジョージ5世が裕仁皇太子に紹介したのがJ・R・タナーというケンブリッジ大学の国政史の先生でした。

ジョージはエドワード7世の次男坊でしたが、ヴィクトリア女王時代の1892(明治25)年、1つ年上のエディー(アルバート・ヴィクター)という兄が亡くなってしまったので、急に次の次の王位が降りかかってくることになる。そこでタナー先生と一緒にこのバジョットを、どういうものなのだろうと2人で読むのです。

昭和天皇と会うのは1921年ですから、4半世紀後ぐらいですが、タナーはまだケンブリッジで健在でした。裕仁皇太子がケンブリッジ大学で名誉法学博士をもらったので、タナーに記念講演をお願いしたのですが、当日は時間がなく講演ができないということでその概要だけ進呈された。今、宮内公文書館にその概要の日本語訳が残っています。

その中盤あたりに裕仁皇太子が赤く塗ったのではないかと思われる箇所がある。そこには、イギリスの立憲君主制の現状について、バジョットの言っていることが書いてあるのですね。

このイギリス来訪では、ジョージ5世に親しく接してもらい、タナーさんからご進講も得て、ジョージ5世は昭和天皇にとって思い入れのある重要な人物となったのですね。

都倉 ジョージ5世は、まだ10代のとき、明治14(1881)年に日本を訪れているのですね。たまたま明治14年政変の直後で、『帝室論』が書かれる半年ほど前にあたり、明治天皇とも会見しています。

河西さんはジョージ5世の存在が、昭和天皇を介して今の象徴天皇のあり方に与えた影響については、どのようにお考えですか。

河西 ジョージ5世は、おっしゃるように昭和天皇にも非常に影響を与えていますね。皇太子として訪れたイギリスから帰ってきた後、イギリス流の立憲君主制について意識していきますし、天皇が戦後、象徴になったときでさえ、そうした感覚が残っていたと思います。

昭和天皇は政治家に対して助言したり励ましたり、ということをしてこそ君主としてあるべき姿だと考えていたようで、バジョットやジョージ5世の影響をすごく受けて、自らの行動をしていたように思います。

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