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【特集:『帝室論』をめぐって】
座談会: 『帝室論』から読み解く象徴天皇制

2019/05/07

危機の時代の立憲君主

都倉 立憲君主としての天皇ということから言えば、戦前の昭和天皇は自分でそれを強く意識していたと『昭和天皇独白録』で発言しているのが有名ですね。特に即位直後、昭和4(1929)年に張作霖爆殺事件のことで田中義一首相を辞めさせてしまい、思うところがあったとされますが、ジョージ5世との交流や英国の皇室のあり方を踏まえていた部分は大きいのでしょうか。

井上 私が昭和戦前史の観点から関心があるのは、ジョージ5世のように公正中立でなければいけないと考えていた君主でも、1930年代の危機の中で、政党政治に関わっていったところがあることです。おそらく同時代の昭和天皇も何らかの形でそういうジョージ5世の姿を見て、考えたのだと思います。

『昭和天皇実録』を読むと、張作霖爆殺事件のことで田中を叱責した後、部屋に戻ると、ゴルフの予定をキャンセルして、執務机で疲れてずっと居眠りをしたとあります。その当時も、「立憲君主の振る舞いとしてあれでよかったのか」と、悩んでいたのだと思います。

その後の2・26事件のときも、あるいは日米開戦や、終戦時のいわゆる聖断も含めて、ロボットのようにしていればいいとは決して考えていませんでした。立憲君主国として存続していくために君主はどう振る舞わなければいけないのか、ということを同時代のイギリスのジョージ5世の姿を見て学んでいたのではないのでしょうか。どちらかの方向に国を向けるときに、君主も間接的な方法を使ってでも関与しなければいけないのでは、という苦悩が戦前の昭和天皇にはずっとあったのではないでしょうか。

イギリスは「君臨すれども統治せず」というけれど、実際の政治過程に対して関わっていたし、危機の時代の立憲君主のあり方というのは、そういうものだと思います。

君塚 おっしゃる通りで、田中が辞任したのは1929年ですが、その年、世界恐慌が始まって、その余波がヨーロッパにも30年、31年に来ます。マクドナルド労働党政権は、結局、1931年8月に内閣総辞職となる。

マクドナルドはジョージ5世が一番信頼している人物でした。このときはジョージ5世がイニシアティブをとって、マクドナルドを首班に世界恐慌へ対応する挙国一致内閣を作るのです。保守党のボールドウィンや自由党のサミュエルを呼びつけ、渋るボールドウィンを前に、御前会議で、これでいこうと、マクドナルド首班の挙国一致政権ができるのです。

でも、そのとき、マクドナルドは、労働党をクビになっていた。そんな人物を首班につけていいのかという議論が出ると、すぐ総選挙をやって民意を問えと、ジョージ5世は言う。2カ月後に総選挙をやると、総議席の90%をこの挙国一致政権側が握った。

このように、いざというときは一番長く経験を積んでいる国王が出てくる。ジョージ5世も、いざというときは、君主が出なければいけないということは意識していたのだと思います。

都倉 実際の政治にも事実上、深くコミットするのが立憲君主の姿であるというのが英国モデルなわけですね。

一方、福澤の『帝室論』は、バジョットを引きつつも、「政治社外」でなければならないと直接の政治関与を繰り返し否定している。だからこそ、戦後にこれが再び脚光を浴びるものになりえたのかとも思います。

『ジョージ5世伝』と小泉信三

君塚 イギリス王室はジョージ5世が1936(昭和11)年に亡くなった後、外交官のハロルド・ニコルソンに伝記執筆を頼みます。そして、1952(昭和27)年に『ジョージ5世伝』が完成する。そしてその年、ジョージ5世の孫のエリザベス女王が即位します。

翌、53年6月2日にエリザベス2世の戴冠式があり、そこに当時の明仁皇太子が日本を代表して昭和天皇の名代として行くわけです。そこで当時の駐英大使から、できたばかりの、『ジョージ5世伝』を東宮御教育参与として随行していた小泉信三が受け取り、明仁皇太子と「一緒に読もう」ということになります。

そして、1959年4月のご成婚の1週間前に読み終えるんですが、このことについて、1998(平成10)年5月、天皇になってから初めて陛下がイギリスを公式に訪問した際の記者会見で、「ジョージ5世の伝記は小泉博士と一緒に読みました。バジョットの憲法論、国王は相談され、励まし、警告するということをジョージ5世は学ばれました。ジョージ5世の地道に誠意を持って国のため国民のために歩まれた姿は感銘深いものがあります」とおっしゃっています。

なぜ小泉信三は、『ジョージ5世伝』を選んだのかというと、やはりジョージ5世が義務というものに忠実な君主であったからでしょう。立憲君主制についてはバジョットを読み、1910年に即位してからは経験をいろいろ積み重ね、君主としての人生も公正中立だった。どの政党にも偏らず、そして国民と共に第1次世界大戦を乗り切ったわけです。そのような姿勢を小泉さんと一緒に伝記を読んでいく中で感じ取ったのではないかと思います。

もちろん日本国憲法下での天皇とこの時代のイギリスの国王とは違う部分は多いですが、立憲君主とは何か、特に現代における君主とは何かということを明仁皇太子と小泉信三、2人で考えていたような気がします。

河西 今上天皇には皇太子時代の記者会見で、「自分はロボットになることも必要だが、それだけであってはいけない」という趣旨の発言もあります。天皇たる者はどこかで人々を励ましたり、どこかで政治に助言する存在だ、ということは意識しているように見受けられ、それはおそらく小泉信三と一緒に『ジョージ5世伝』を読んだことが要因の1つだと思います。これからより明らかにすべき問題ですが、その影響は大きいのではないでしょうか。

都倉 今日は小泉信三が持っていた『ジョージ5世伝』の実物を持ってきました。昭和28年の渡英の際に、駐英大使から渡された2冊を、皇太子と小泉でそれぞれ1冊ずつ持って授業をしたと言われています。先ほどお話に出た読了の日付がこの本の最後に「April 3 1959 (for the second time)」と書いてあります。「小泉信三展」で陛下がいらしたときにこのことが話題に出まして、「最初から最後まで通読したわけではない」と強調されていました。

ほかにも、この中に出てくる国王の書簡を小泉信三がレポートのような形で翻訳させたものが残っています。この本を通して丁寧に「君主」のあり方を考えようとしたことが分かります。

御進講に使用した『ジョージ五世伝』(慶應義塾福澤研究センター蔵)
『ジョージ五世伝』読了の日付がある巻末ページ。(慶應義塾福澤研究センター蔵)
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