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【特集:『帝室論』をめぐって】
座談会: 『帝室論』から読み解く象徴天皇制

2019/05/07

吉田茂と象徴天皇制の形成

都倉 あの外遊のときは吉田茂もいろいろと配慮しているかと思います。吉田茂の意図についてはいかがですか。

井上 吉田は回想録の中で、「先進的な民主主義国はみな立憲君主国なのだ、日本も立憲君主国として先進的な民主主義国になるんだ」とはっきり言っています。そのような観点から「臣・茂」と民主主義は両立するんだと批判をはね返しているところがあります。

吉田は、「天皇だから尊い」ということではないと思っていて、欧米の立憲君主国は機能主義的に国家の形として望ましい、だから日本もアジアにおける立憲君主国になるべきだと割り切っているのではないでしょうか。決して神聖不可侵ということではなく、むしろ自分にとって操作可能な立憲君主国をつくっていく中で、象徴天皇制という形でやっていくのがいいという判断ではないでしょうか。

都倉 小泉信三も福澤の『帝室論』について、皇室というものが民主主義と矛盾しない、同居可能だということを語る根拠を求めていったところがあるかと思います。

象徴天皇制の形成にあたって、いま小泉信三に比較的注目が高まっていますが、その他の人たちの関わりや影響で、河西さんが重視されている方はいらっしゃいますか。

河西 いろいろな人がいますね。津田とか和辻のような形で理論を形成していく人もいますし、象徴というのはまさに伝統的な姿であって、むしろ戦前は政治にコミットしすぎたから、今の姿は理想的だと言う人もいます。

吉田などは象徴の枠内でいろいろなことを考えていたと思います。吉田のやった内奏というのも、立憲君主国の君主として当然の権利であり、義務でもあるわけで、だからこそ天皇の求めに応じて積極的にやっていく。政治家としての彼は戦前に回帰するというよりも、象徴をどう解釈するか、ということをやっていたのだと思います。

そして、吉田の流れにある保守政治家が、それをその後の戦後政治の中で継承していったのではないでしょうか。

君塚 明仁皇太子の訪英は1953年ですから、戦争が終わってまだ8年目です。当時、東南アジアでのイギリス人捕虜虐待問題によって、イギリス国内では、なぜ日本の皇太子を大切な女王様の式典に呼ぶのかという反対論もかなり強くありました。

チャーチル首相が皇太子の歓迎午餐会を開き、自分で人選をする。出席者には労働党のアトリー前首相や労働組合のリーダー、それから日本を叩いていたマスコミのトップ、『デイリー・エクスプレス』の社長をやっていた、ビーヴァーブルック男爵などという有名な人がいました。

このとき、チャーチルが予定されていなかったスピーチを急にやったのです。「今ここに集まっている人たちはいろいろな意見を持っている。労働組合のリーダーもいれば、野党も、与党もいる。いつも侃々諤々の論争をやって分裂することもあるけれど、それを乗り越えられるのがイギリスで、その根底にあるのはまさに立憲君主制なのだ」と述べます。

これもたぶん当時の明仁皇太子には大きい感銘を与えたのではないでしょうか。今のイギリスの政治家たちに聞かせてやりたいスピーチですね(笑)。吉田と非常に仲のよかったチャーチルの影響もイギリスで受けたのですね。

河西 一方で戦争の問題については、イギリスやオランダで、皇太子は相当ショッキングに思うことがあったようです。そして、実際に自分が感じたことを小泉に話しています。

今上天皇があんなに一生懸命戦地を廻られている1つの要因はそこにあるのではと私は思っています。日本では戦争問題を忘れかけていた中で、外国に行ったらそうではなかった。この影響はものすごくあったのではないか。

都倉 「小泉信三展」のとき、初めて世に出した「御進講覚書」というノートがあります。あの中で「責任論からいへば、陛下は大元帥であられますから、開戦に対して陛下に責任がないとは申されぬ。それは陛下御自身が何人よりも強くお感じになってゐると思ひます」と、昭和天皇の戦争責任に小泉がはっきり言及します。それでもなお皇室が存続したのはなぜか、よく考えよ、という意味のことが続きます。小泉は皇太子に話す前に、昭和天皇と相談し、戦争の認識も話し合っています。

裏返せば、小泉信三自身の塾長時代の責任の自覚の表明でもあると思いますが、皇太子が将来天皇となったときに、その地位は当たり前にあり続けるのではなく、常にあるべき姿を模索し続けねばならない、その責任を自覚せよというわけです。こういうことをズケズケと遠慮なく言うのが小泉信三の価値だったと思うのです。いかついようですが、家族にはとてもおしゃべり好きな父親だったようですし、時にお節介なほどサービス精神が旺盛です。

小泉は、塾長時代も何かと口うるさかった人で、例えば詰め襟の上からマフラーをするのはおかしいとか、着帽のまま食事をするなとか、塾生に細かく注意を与えた講話や冊子がありますし、そういう塾生を見つけると自ら注意するんです。学徒出陣世代のOBの方と話すと、直接塾長に注意されたという思い出がしょっちゅう出てくる。

「御進講覚書」にも「人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見てものを言ふこと」「Good Mannerの模範たれ」と書いてあります。こんな気兼ねなく口うるさい人は皇室の周辺にいなかったはずで、いちいちその野暮を言う人をそばに持ちえたことが、皇太子の幸運だったのではないかと思います。

読み返されるべき古典

都倉 今までの議論を踏まえて、現在の象徴天皇のあり方、あるいは今後について思うところがありましたら、お願いいたします。

井上 平成の次の時代がどうなるか。そのような状況の中で『帝室論』を読み直してみると、終わりのほうにある、「日本の帝室は学術を重んじ学士を貴ぶとの名声を発揚するに足るべし」という一節が浮かび上がってきます。これは日本は文化国家、道義国家になるべきだ、それを象徴するのが天皇だというふうにも読めます。

次の陛下は学習院大学大学院で修士号を取得した研究者でもあり、長年、学習院大学史料館の客員研究員をされていて、ある膨大な前近代の文書の読解を続けられています。学術に関して重要な業績のある方が天皇陛下になられて、文化を大切にするのが日本の姿だということは、『帝室論』にあらかじめ書かれていたのだと思いました。今の時点でも読み返すに値する本当の意味での古典です。

君塚 おっしゃった通り、次の陛下は史上初めて大学院をお出になられて修士号を持っている天皇であると同時に、史上初めて海外留学経験のある天皇でもあるわけです。あわせて皇后も史上初めて留学をされている方です。ですからご夫妻で、今度はご自身たちが若い世代との交流などを推進していっていただけるような新しい側面もあるのではないか。

また、雅子妃殿下は昨年12月9日のお誕生日会見のときに、近年は子供の虐待問題、貧困問題、地球環境問題に関心があるとおっしゃっていました。ヨーロッパの王室でも王妃や王女たちが社会事業に財団を立ち上げ、コミットしていくこともあります。今の天皇・皇后両陛下とはまた違った角度からの国際親善も可能になるのではないか。私はそのようなことを希望しています。

河西 私は違う観点からお話ししたいと思います。私たちには見えていないところで、天皇が政治家に対して、長く続けているからこそできる、いろいろな助言があると思うのです。選挙で選ばれている人ではなく、ずっと長く続けているからこそ、気付く側面が天皇にはあると思います。そして、そうしたことに気付くことができたのは、『ジョージ5世伝』をともに読んだ、小泉の存在があったことが結構大きかったのではないかと思います。

1960年、明仁皇太子夫妻がアメリカを訪問するとき、外務省が皇太子ご夫妻には国際交流だけではなく、国際政治の話もアメリカで聞かせてあげますと言ったら、小泉がそれに賛成したと書いてある文書を外務省外交史料館で見たことがあります。そのような形で後ろからバックアップしていた。

皇太子が後に天皇になったときのことを考え、君主としてあるべき姿を考えて教育をしてきたのだと思いますが、それが今はどうでしょうか。次の天皇に小泉のような人がいたのかどうかということは考えなければいけません。高所から見られる人が教育して、あるべき天皇として、教育されてきたのかどうかをこれから考えていきたいと思っています。

都倉 有り難うございます。「天皇制」という「制度」と言いながら、周りの人たちの影響の中でつくり上げられた個人としての天皇の資質、人格に依存するところの不安定性というものがあるのだと思います。

単に存在し続けていくのではなく、そこに積極的な価値を認め、しかもそれが民主主義と調和する形でどうあり続けていくべきか。そのような視点で皇太子の教育に小泉信三という人が携わり、そしてまたその背景に福澤諭吉の『帝室論』があったということが、この機会にあらためて見直されていくことには意味があるのではないかと、今日は感じさせていただきました。

どうも有り難うございました。

(2019年3月15日収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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