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【特集:『帝室論』をめぐって】
座談会: 『帝室論』から読み解く象徴天皇制

2019/05/07

小泉信三と戦後の皇室

都倉 小泉信三が皇室に関わるようになるのは昭和21(1946)年です。最初、東宮御学問参与という形で、東宮御教育常時参与になるのが昭和24年2月ですが、小泉信三がこのような形で皇室に関わるようになった経緯も、必ずしも資料で裏付けがとれているわけではない。この点については河西さん、どうでしょうか。

河西 これは難しいですね(笑)。私は去年、NHKが放映した、今上天皇の近くにいらした榮木忠常(さかきただつね)さんという元東宮侍従の日誌を読みましたが、その中で、戦中に東宮御学問所に関する構想があり、誰を教育係にするかということで何人か名前が挙がる中の1人として、小泉信三という名前があったのです。

あれを見たとき、なるほど、戦争中から皇太子に対する教育は国体を叫ぶようなファナティックな人ではなく、リベラルな人物にやらせようという考えを東宮近くの人たちは持っていたのかと思いました。小泉は人物的に優れていると考えられていたからでしょう。

戦後になり、実際にどうして小泉が教育掛になったのかということはよく分かりません。小泉が当時持っていた影響力から、国民からしても彼に教育してもらうならば安心だ、という感覚はあったと思いますが。

都倉 先ほどおっしゃった榮木さんの日誌では、たしか平泉澄(きよし)は駄目だと。

河西 そう書いてありますね。安倍能成(よししげ)や小泉信三などが候補として書いてありました。

都倉 小泉信三は、戦争中の慶應の塾長で、学徒出陣で学生を送り出す立場だったわけですが、一方で、戦後を見据えた人選に名前が挙がり、その待望論が戦後まで持続する。やはり「小泉信三展」のときに発掘された資料で、昭和20年8月の緒方竹虎から小泉宛ての手紙があり、これによると東久邇宮内閣の顧問を打診されている。小泉の空襲での負傷がかなり重篤であったことが知られていなかったようです。

戦後になりますと、小泉は反共の旗手で旗幟鮮明、保守論陣の先頭に立つ。しかも皇室に関与していく。これらの事情が全部併存することの持っている意味というか、小泉信三の立ち位置はまだ描かれきれていないという感じがします。

小泉信三は吉田茂との関係も深く、書簡も80通ぐらい残っています。吉田が戦後日本の再建の中で小泉に対して求めていたものはどういうところだとお考えになりますか。

井上 当時の重要な人々は戦時体制下で何かしら手が汚れていました。その中でいわば消去法で戦後もやっていける人というのは、本当に限られていたと思います。また、当時は今からは想像できないぐらい人間関係が極端に狭くて、お互いに面識があってよく知っています。それゆえ吉田茂と小泉が、同時代的に見れば心理的に近い距離にあったのではないでしょうか。

安倍能成の名前もあったということですが、非常に興味深いですね。安倍は戦時中、一高の校長で、学徒出陣のときに複雑な思いはあったけれど勇ましく送り出しているところもありました。

社会的な地位なども考えたときに、慶應は当時も飛び抜けて有名だったはずですから、そのトップであった小泉がなるということは、それほど違和感がなかったのではないかと思います。

河西 基本的には、初代宮内庁長官だった田島道治が説得するので、その意味では田島が小泉を買っていたということだと思います。彼らは象徴天皇制を一定の方向に持っていきたいという思いがあったと思います。田島は、最初は退位論者でもありますし、戦前とは大きく変えたいという思いは大きかったのでしょう。

それで小泉を説得した。彼はそれまでも皇太子の教育に携わってはいましたが、小泉を常時参与にするのは田島でしたから、その影響力は大きいと思います。

都倉 芦田均内閣(1948年)のときに、まず小泉が宮内府長官に請われていますね。その後、東宮大夫兼東宮侍従長も依頼されている。福澤諭吉の弟子なので官職に就けないと小泉が断ったと、田島の日記に書いてあります。

肩書きはともかく、関与の度合いを深めていくわけですが、小泉信三の存在が戦後の皇室の設計に、特に影響しているのはどのあたりと見ますか。

河西 やはり、『ジョージ5世伝』を一緒に読んだということはとても大きいと思います。後に今上天皇は記者会見の中で、自分が影響を受けたのは安倍能成と小泉信三と坪井忠二の3人だとはっきり言っています。ヴァイニング夫人ではないのですね。

先程述べた、今上天皇の皇太子時代の「ロボットでは駄目」発言は小泉と、『ジョージ5世伝』にある「(政権に)助言を与え」という部分を読んだからではないか。

日本の場合、バジョットの捉え方が少し誤っていて、まったく政治に関与しないという形でバジョットを解釈する人が多い。そうではなく、むしろ今上天皇のほうがバジョットをより正確に解釈しているのではないかという印象を持ちます。

君塚 『ジョージ5世伝』を読んだということは、バジョットという理論家そのものではなくてジョージ5世という、それを実践した人間に触れたわけで、余計にバジョットの真意みたいなものもきちんと捉えられたのではないかと思いますね。

ヨーロッパ外遊という大きな体験

都倉 それ以外にも、小泉が皇太子の身の周りのことに細かく気を配り、人格の形成に大きく影響を与えたと言われますね。

河西 エリザベス女王の戴冠式でヨーロッパからアメリカへと外遊(1953年)したときでも、小泉は随行員ではないのですが、ときどき皇太子一行と落ち合っては話をしています。

そこで何をしているかと言えば、見学してきたことをそこで復習して、何を感じ取ったのかをシェアしている。ずっと付いて世話をするわけではないけれど、皇太子が初めて外国へ行って、どういうことを見て、どういうことを感じたのかを、放っておかずに聞いてあげて、上手い付き合い方をしているのは確かだと思います。

都倉 小泉信三というのは非常に教育者で、皇太子本人の主体的な気付きを重視しているように思います。

慶應的に言えばまさに「独立自尊」ですが、自分で考えるように仕向ける。テニスの練習でも、小泉の弟子たちが皇太子に教えに行って、ボールが後ろに飛んでいっても侍従に拾わせない。自分で取りに行くまで待つという指導をする。そうすると、しばらくすると当たり前に自分で拾う。やがて試合に負けたら「負け審」もするようになる。

そのようにして、君主である前に、まず人としての当たり前の感性や振る舞いを育てたところも大きいのではないか。その意味でまさに教育者です。小泉がそういうことを意識する人であったことが皇太子の人格形成に大きな影響を与えたと思います。

中でも戴冠式での渡英というのは、人格形成に非常に大きなインパクトだったのでしょうね。

君塚 やはりイギリスの実際の姿を見たということですね。つい数年前までは日本と戦争していた相手でもあるわけです。そして父である昭和天皇も、32年前に訪れた同じ国を見られた。

もう1つ重要なことは、第2次大戦中、ヨーロッパでは、立憲君主がリーダーシップをとって国を救ったという状況がよく見られました。ナチスドイツに蹂躙されてしまったデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクという国では、それぞれの事情はありましたが、リーダーシップを握ったのは君主たちでした。

最近、『ヒトラーに屈しなかった国王』という映画になったノルウェーのホーコン7世。あるいはオランダのウィルヘルミナ女王。あるいはルクセンブルクのシャルロット大公。このような人たちがロンドンなどに亡命して、レジスタンスと呼応してナチから解放していくのです。

実際に1953年にイギリスでの戴冠式が終わった後、明仁皇太子が各国を回ってアメリカ経由で帰ってくる途中、ノルウェーでホーコン7世に会っています。2005年、ノルウェーがスウェーデンからの独立100周年を記念して天皇・皇后両陛下がノルウェーを公式訪問された際の宮中晩餐会でこのお話をされている。

また、1953年に出会った、まだ幼い、若い王子・王女たちが、後にベアトリクス女王になっていたり、あるいはアルベール2世がベルギー国王になっていたりする。皆、自分と同世代です。2013年にベアトリクスとアルベールが生前退位をしますが、それをご覧になったことが、2016年の会見につながったのかもしれません。

そのように、今までは字面でしか追えなかったものを実際に見ると同時に、即位されてからの知己としての親交の基礎も築けたこの訪問は非常に大きかったと思います。

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