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【特集:『帝室論』をめぐって】
春秋ふかめ揺ぎなき──戦後復興期の義塾の気概

2019/05/07

廃墟となった大講堂から見渡す昭和20年代の三田キャンパス
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

平成の時代の皇室が語られる時、元塾長小泉信三の存在がしばしば言及される。小泉は、昭和21年4月に東宮御学問参与を委嘱され、24年に常時参与となり、明仁皇太子殿下の御教育に尽力した。そして後には御進講で、福澤先生が明治15年に著した『帝室論』を用い、代わる代わる音読したこともあった。『帝室論』は、「帝室は政治社外のものなり」、「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催うすべし」と、今日的に言えば国民の象徴としての天皇の姿が示されているものである。

この昭和20年代前半は、敗戦からの国の再興を模索し、社会の価値観も、家族、教育から皇室に至るまで大きく転換することが求められた時代である。中でも個人の自由と平等、個人の独立を重んじる国において皇室をどのように位置付ければ良いのか、考え悩む人は少なくなかったに違いない。

では、義塾社中の人達はどのように敗戦後の新しい時代を迎えたのであろうか。昭和20年代前半の塾の人達の意識、言わば三田の空気を考えることは、その時代を理解する上で有意義であろう。また、小泉が思い描いた新しい時代の社会の姿、皇室の姿が、小泉のみに特別なものでも、時勢への対応として考え出したものでもなく、もっと自然なものであったことを理解する助けにもなるであろう。

自分達の時代

先の大戦によって慶應義塾が被った損害は甚大であった。三田と信濃町は空襲で校舎や病棟の多くを焼失し、復興の拠点にと考えていた日吉はアメリカ軍に接収された。また何よりも、多くの塾生、塾員が戦死した。降伏後、異国の地にあって未だ帰還を果たせぬ人も多かった。

勿論、被害の大小はあれ、誰もが様々な苦難と悲しみに直面し、目の前の生活で精一杯な時代でもある。しかし、義塾の人達には他とは少し違う感覚があった。

例えば、幼稚舎の教諭であった渡辺徳三郎は、後に「集団疎開・幼稚舎・塾風」と題する随想(渡辺著『福澤諭吉家庭教育のすすめ』所収)で次のように述べた。

「あの当時、義塾に関係した人は誰でも、敗戦はいやなことであったが、それによって極端な国家主義がとりのぞかれ、義塾本来の精神が活動出来ることをうれしく感じたことと思う」

そして、「古い価値のよりどころは失われたので、世間の学校では、どうしてよいのかわからないという混乱を生じたところが多かったようである」が、「幼稚舎──慶應義塾──は幸いにしてこのような混乱には無縁であった。それは学校には勿論、父兄の中にも塾風が生きているからだと思う」と記した。昭和21年2月に行ったクラスの保護者へのアンケートを例に、保護者もまた福澤先生以来の塾風に信頼していた事実も添えている。例えば、塾員の保護者からは「慶應義塾の学風が他の何れよりも自由主義であり民主主義であった事は実によろこばしいことです」というような回答があったという。

渡辺は、また、「終戦になったからと言って、自分を急角度にかえなければ、とは思いませんでしたし、むしろ、福澤先生の教育を公に実現出来る時が来たと感じました」(『幼稚舎新聞』第774号)とも回想している。

このような感覚は塾を離れて久しい塾員にもあった。例えば私は、昭和7年卒業で明治生命に勤め、後に『阿部泰蔵伝─本邦生命保険創業者』や交詢社史も編纂した昆野義平氏にカセットテープを回しながらインタビューしたことがあるが、その中で昆野は次のように述懐していた。

「(終戦までは)私学なんて馬鹿にしている。官学でないと駄目なんですよ。それで戦争が終わって、NHKの放送、朝『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と放送されるんですよ。毎度ここから始まる。(略)私の大先輩の所、訪問したらね、いよいよ慶應の時代が来たよ、今度こそ福澤先生の精神が生かされるときが来たと非常に喜んでいました。常識的にいって、もう官学の時代ではない福澤の時代だと、一般的にそうなりましたからね」(慶應義塾高等学校福澤研究会会誌『雪池』第6号)

様々な悲しみを抱え、また、戦後の復興に苦労しながらも、このように義塾の人達にはようやく自分達の時代が来たという感覚があったのである。

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