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【特集:『帝室論』をめぐって】
春秋ふかめ揺ぎなき──戦後復興期の義塾の気概

2019/05/07

創立90年式典で確認した「当然な権利と義務」

これまで紹介して来た当時の義塾社中の人達の気概が最も表れたのが、満ではなく数えで昭和22年に行った創立90年記念式典であろう。前年までの終戦後の応急の対応からようやく復興に向けて弾みを付けたのがこの記念式典でもあった。

塾長潮田江次の式辞にその気概がよく表れている。

「慶應義塾は常にあくまでも民間において、国民に伍してその独立自尊を唱道し実践してまいりました。国民の間に封建思想を根絶やして、独立自尊の風を植えつけようと率先力を尽しました。官権軍閥の力と闘って、自由民権のために闘ってまいったのであります」

そして、日本が「民主国家としての更生の第一歩を踏み出し」、新憲法と教育基本法には、塾が主唱して来たものが盛られていることを指摘して次のように述べた。

「この時にあたり、義塾がこの伝統の精神をもって国民の先導を勤めなければならないことは明らかであります。私どもはこの90年祭を機会に国民の一大啓蒙運動に乗り出すことにつきまして、最も当然な権利をもち、かつ義務を課せられておるものと自認いたすのであります」

なお、90年祭に合わせて義塾出身の木琴奏者平岡養一によって作られ、式典の最後に合唱したのが「慶應讃歌」である。その一番の「我等が若き力以(も)て 理想の祖国(くに)を打建てん」にこめられた意気も、このような時代認識を知ると更に実感を以て理解することが出来よう。

この式典には高橋誠一郎も文部大臣として祝辞を述べた。その中で教育基本法に絡めて次のように語っている。

「明治33年、福沢先生の最晩年におきまして、修身要領を発布いたしたのでありまするが、この中にもられておりまするところの精神、すなわち独立自尊主義、これがやがてまた、教育基本法中に述べられておりまするところの、教育の目的というものは人格の完成に存するものである、民主政治下における教育制度は、個人の尊厳と価値の認識に基礎をおかなければならんという、この原則と適合するものであると考えるのであります」

高橋は、若き日には、教育勅語一辺倒の世に対して、義塾が「『修身要領』の根幹をなす独立自尊主義の普及徹底をはかる」(高橋「明治41年の巡回講演」、『随筆慶應義塾』所収)ために行った巡回講演に加わり、各地で講演したこともあった。

自然に備わった軸

このように見てくると、戦後、昭和20年代前半の塾の人達の気概は、社会の価値の基準が大きく転換する中にあって無理にひねり出したものではなく、福澤先生の時代からの一貫した軸があって、それがそれぞれの心の中に自然に備わっていたことがわかる。まさに塾歌(昭和16年制定)の三番の「春秋ふかめ揺ぎなき」である。

昭和24年のものと思われる全国慶應学生会連盟(全慶連)の新入生歓迎パンフレットに、全国から上京、入学した塾生に向けて潮田江次が記した「新入生諸君へ」が掲載されている。これは、その自然に備わっていた軸とその意味をよく示しているので全文を紹介したい。

戦時中の規律訓練になれた者が塾へ入った時には、何というだらしのない学校だと思ったそうである。戦後の無軌道乱雑や社会から三田へ来た諸君は、反対に却って保守的な処だと驚くことであろう。これが塾風である。世間がちぢこまったり行き過ぎたりしている間に、塾は独り90余年かわることなく伸び伸びと自由民主の主義を行って来たのである。この点では我々は大人である。
塾には自由を珍しがって無暗に物をこわしたり人に突っかかったりする子供はいない。権力の前に臆して平身する卑屈漢もいないが、無礼の言を吐き無作法を振舞って得意になる田舎者もいない。独立自尊いやしくも外に対して己れの権威を軽んずることをしないと同時に、何にでも参加発言を求めるような無知浅薄は犯さない。師弟朋友何のこだわりもなく物を言い語り論じ、而も友に礼儀を失わず作法あり、相和し相親んで一家を成すのが塾風である。
諸君も早くこの家風を体得して自由民主の大人になり、塾の名を愈々輝かして頂きたい。

高橋についても、『三田評論』の追悼号の座談で、文部大臣時代の事務次官有光(ありみつ)次郎が次のように回想した。

「民主主義下における皇室の在り方や、教育勅語への対応についての考え方など、時流をリードするものを高橋先生は、はっきり持っておられた。教育基本法の制定にも全く抵抗を感じることなく、慶應ではあんなことは普通に通用していましたよと洩らしておられた」

このように見て来ると、小泉、高橋をはじめとする義塾の関係者にとっても、その考えに共感する吉田茂等にとっても、自由平等の社会と国民の象徴としての皇室が矛盾無く両立することについて、違和感はなかったことであろう。

福澤先生以来の1つの軸があるお蔭で、先生が社会でどう評価されるかを見れば、その時代の傾向を知ることが出来る。その意味でも、時代が代わっても『帝室論』も、高橋、小泉らの果たした役割も、意義が小さくなることは無いであろう。そしてまた、戦後間もない時代に端的に見られる塾の人達の気概を改めて大切にしたいものである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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